第9話 あなたは探究者ですか?
「、、、、。なぜそう思うんですか?」
扉に手をかけたまま硬い声で問う。
「そうですねぇ。人間は実に不思議だ。いつもそこにあるのに自分にとって必要なものしか情報として記憶しようとしない。だから毎日見ているはずなのに記憶として残らない。気にも留めず過ぎ去っていく。あの看板は常にあそこにあるにも関わらず。ですがあなたはここの看板を見つけ、魅入られた! でなければここの扉を開けるような人はいません。お世辞にも入りやすい雰囲気とは言えませんしね。でも、だからこそあなたが何かを求めていることは明白だ。」
神崎の言い分を聞いて確かにあの看板はずっとあそこにあったのかもしれない。
自分が見ようとしていなかった。
いや、過去の自分はその看板を、看板に書いてある言葉を必要としていなかった。
だから気づけなかったんだ。
そこまで思い当たるとこの神崎という男と話をしてみるのも悪くない、そう思い始めていた。
とりあえずもう一杯だけ、そう決め神崎と再び相対する。
そして気が付いた。
彼が発している独特の空気に。
好奇心や野心を宿し為に狂気の光がさしていることに。
だがそれも一瞬の事だ。
すぐにその瞳から狂気の光は消え最初に出逢ったときのような柔らかな瞳に戻っていた。
気のせいだったかもしれないと自分を疑ったが心の中では少しずつだが神崎という男に対する認識の改めが始まっていた。
ここまで来たら前置きはいらないでしょう。
単刀直入に言わせてもらいます。
「あなたの命を買わせてください。」
一瞬、一樹は自分の耳を疑った。
人身売買が禁止されている日本ではまず聞くことのない話だ。
命を買う?
「俺を殺して臓器売買でもする気ですか?まっとうな人間が言うようなこととは思えないな。」
自分の言葉が少し震え、恐怖しているのかと思い思わず笑ってしまった。
さっきまでこの世界に絶望して自分の命を絶とうとしていた俺がいざ死を目の前に突きつけられてビビるなんて滑稽もいい所だ。
死のうとしておきながら、この世界に絶望しかないと分かっていながら俺の心はまだこの世界で生きたいと願っているらしい。
「自分が滑稽ですか?死を受け入れたにも関わらず生にすがる自分が?やはりあなたは面白い。」
神崎の言葉に思わず手で口をふさぐ。
心の声が口から洩れていたのかと思ったからだ。
だがそんな様子はない。
神崎は人の心が読めるのか?
そう思うとますますこの男が自分とは違う生物なのではないかと思えてくる。
「そんなに警戒しないでください。それに先ほどの言葉にも語弊がありましたね。私はあなたを殺したいのではなく、あなたのこれからの人生を、命という労働力が欲しいんですよ。思考し、共にこの世界の真理の頂に歩もうとしてくれる同士が!」
「なぜ俺なんです?もっと他に適任者がいると思いますけど。」
再びその瞳に狂気の光が差し込み始めたのを視界の隅でとらえた一樹は警戒しながらも尋ねる。
「あなたは探究者ですか?それとも人生の落後者ですか?」
「は?」
突然の話の飛躍についていけない。
探究者とか言われても意味が解らない。
だがそんな一樹に構うことなく神崎は話を止めない。
すでに神崎は自分の世界に入り込んでしまったようだ。
「私はねぇ、生まれながらの探究者なんですよ。この世のありとあらゆる事象の根源を、真理を知りたい!では根源とは、真理とは何か?やはりすべての道は人にたどり着くと思うんですよ。だから人とは何か、人の行動原理、極限状態での思考判断、全てが興味深い。ですがそれらを解き明かすには私一人では到底かなわない。私とは異なった思考プロセスを持った探究者が必要なんです。偏った思考では、頂にはたどり着けない。なん通りものデータがあって初めて理論が成り立つように、様々な思考プロセスを介して初めて真理への扉が開かれる。そうして頂にたどり着いたものこそ真の探究者としてこの世に名をはせ、世界に迎えられるのです。」
「それにね、一樹さん。私はこの探究心が満たされるのであればどんな非人道的なことだろうと倫理に反することだろうとかまわない。その結果歩む道が修羅の道だろうとかまいません。この世の真理を解き明かすものにこそ正義はある。その正義の前では倫理など霞んでしまう。」
完全に狂ってる。
だが、この神崎という男の言っていることは知的好奇心を持つものであれば少なからず考える事だろう。
自分の知的好奇心を満たしたい、それ自体は正常だと思う。
だがこの男は別だ。
正常の域を超え、熱を持ちすぎている。
いくら知的好奇心を満たしたいからと言って人はここまで狂人になれるだろうか。
それに彼は自分の行いが倫理に反しようが構わないと言う。
自分の正義を掲げ、その正義の元でならどんなことも許される。
その考え方は歴史上残虐な行いをしてきた独裁者と同じではないのか。
この時、初めて一樹は目の前の男に対して明確な恐怖を抱いた。
もしかして自分はとんでもない化け物と相対しているのではないか。
一樹の背中を嫌な汗が流れる。
怖い。
だが逃げることは許されない。
彼の発する空気が一樹をその場に留める。
「あなたはどうです?探究者ですか?落後者ですか?自分の探究心を心の奥に押し込み、周りの落後者たちの中に溶け込むのは簡単です。だけどそれは単なるまやかしでしかない。それに甘んじている者は、自分の探究心の為に何かを捨てる事すらもできない、ただの臆病者です。そんな人たちに真理を追い求める資格はない。それはもう落後者と同じだ。あなたは捨てられますか?探究心を満たす為にすべてを。」
一樹の中の正常な部分が警報を鳴らす。
この男は危険だと。
このままこの男についていったら本当に人ではないものになってしまうかもしれないと。
そんな正常な心の声に耳を傾け、思う。
今まではこの声に従ってきた。
そのおかげで周りから孤立することもなく周囲に溶け込んで生きてこられた。
でもその結果は?
全て失ったじゃないか。
善人ぶって周りにいい顔してうまくやってきたつもりだったのにあんな奴らに俺の全てを奪われ、壊された。
全てを失ったのにまだ自分の中の正常を信じるのか?
それこそ滑稽だ。
一度すべてを失ったのならこれ以上何を恐れる必要がある?
どうせ死ぬ命だったんだ、それなら最後くらい自分に素直になってもいいんじゃないか?
「俺は、一度すべてを失った。何も成さずに死ぬくらいならあなたに使われるのも悪くないかもしれない。それに俺も今まで閉まってきたこの心が行く先を知りたい。」
「ふふふ。あなたならそう言ってくれると思いましたよ。やはり私の目には狂いはなかった。一樹さん、これからよろしくお願いします。」
そう言って右手を差し出してきた。
一樹はその手を取り神崎と固い握手をする。
自分は悪魔と契約をしてしまったのかもしれない。
対価として要求されるのは魂か、それとも別のなにかか。
だけどそれでもいい。
神は俺を救ってくれなかった。
俺を救ってくれるのは慈悲深い神様などではなく非情な悪魔なのかもしれない。
一樹はぼんやりとそんなことを思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます