十三 罪業と報い

「……ねえ、なんで父ちゃんは悪いことしたの。どうして死んでしまったの」


 しっかりと又兵衛の目を見据える黒く潤んだ瞳に、誠意以外で答えるわけにはいかない。奉行所の詰問よりもずっと恐ろしいところに立たされて、又兵衛は正直に絞り出した。


「……おれは、お前が好きに生きられるよう金を渡したかった。来年奉公に入るはずだったから。奉公はおれと母ちゃんの仕事だったのに、それをお前にも否応無く継がせてしまうのが申し訳なかったんだ。だから金があれば、お前はおれに縛られず何でもできるようになると思った。……こんな理由で勝手に死んでしまってすまない。でも決してお前のせいではないんだ。お前の気持ちも知らず、軽はずみなことをしたおれが悪い。本当に、莫迦だった」


 話す中で、息を飲む音がするのを聞いた。

 生涯の中で一番頭を下げたいと思った。しかしいまの体ではそれも叶わず、ただ粛々と断罪を待つべく目を閉じた。


「……本当に、なんでそんなばかなことしたの」


 又兵衛に降りかかったふきの声は静かで、怒りと憐憫めいたものを滲ませていた。その手はまだ震えている。


「私、父ちゃんと一緒にいられるなら奉公でもなんでもよかったのに……また暮らせるの、楽しみに、してたのに……死んじゃったらどうにもならないじゃない。ばか」


 逼迫した言葉は、身を切られるよりも強い痛みを又兵衛に与えた。

 蕗が望んでいたのは自由などではなく、ただ父親と暮らすことだったのだ。本来二人にとって喜ばしいはずの、何よりも守るべきだったその願いを、又兵衛の身勝手な悪行が踏みにじった。今ここにあるのは最悪の結末だった。


「すまない……」


 又兵衛は謝罪を繰り返すほかなかった。そっと目を開けると、眼前では、蕗が唇を震わせてせり上げる涙をこらえていた。

 強烈な目眩がした。すべてが遅すぎた。もっと早くに会いに行けば、言葉を交わしていれば。この成り行きをきっと避けることができたはずだ。

 後悔が怒涛のごとく押し寄せて、あり得たかもしれない将来を思わせたが、それらは全く虚しい絵空事でしかなかった。

 それでも蕗は殊勝に、恨めしさなど微塵もない無垢な目で又兵衛に向けた笑みを作った細められた眦から一粒だけ零れたものが、明るんだ白い空に光って地に落ちる。


「でも、聞けてよかったいがった。ずっと会ってなかったから、私、父ちゃんに忘れられてるんじゃないかと思ってたの。でもそうじゃなかった。さっきも、刀が恐かったのなんてずっと前のことなのに覚えてたでしょ」


 ふふ、と照れたように蕗の唇は弧を描く。彼女の背にした曙光は次第に強まり、又兵衛の目に突き刺さって疼いた。


「忘れる訳がないだろう」


 又兵衛は小さな娘に、反駁はんばくにも満たない微かな声で呟いた。


「うん。ありがとう」


「そろそろ気は済んだか」


 二人が沈黙するのを待って、三森みつもりはそう確認した。早くしろと言いつつもやりとりを見届けてくれたあたり、やはりこの少年は世話焼きで優しいのだった。少し背をかがめて、「もういいだろう」というような視線を寄越してくる。その顔にはやはり温もりはないが、その代わり冷たくもない。


「うん」


 蕗が三森に頷き、又兵衛も目配せをした。そして父は娘に、娘は父に目をやって、今度こそ別れの言葉を交わした。


「元気で、どうか幸せにな」


「うん。父ちゃん、また盆に山に来るから。あのね、清水の子は盆に山でやっこになって、来る人からお金とかお米とかもらうの。たくさん貰うと自分の分になるから、私頑張るね、その時は見ててね」


 蕗は又兵衛がここにいると信じているらしい。盆のことを話すさまは、窮地に立たされた姿とも悲嘆にくれる姿とも違って、ただ清水村に住む一介の少女のそれだった。

 よく知っていたはずの娘の、見たことのない顔ばかりを見た。


「じゃあ、首を置いて」


 三森が地面を指差す。蕗はいま一度又兵衛の首の土埃を払い、静かにそれを土の上に載せた。


「父ちゃんをどうするの?」


 三森を上目遣いに見て問うた。三森は淡々と応じる。


「体から切り離し、お前とは話せないようにする」


「じゃあ首はその後どうするの? ねえ、構わないなら麓のお寺に埋めてほしいの。母ちゃんの隣に。入ってすぐの、一番西の端よ」


 自由に動かせるようになった腕は多弁で、母の墓の在り処を手振りで伝えた。


「わかった。約束する」


 三森が首肯するのを、又兵衛は土の上から見ていた。それがいきなり、手を伸ばしてきた三森に髪を掴まれ引っ張りあげられる。おかしなことに痛みはない。鈍い感覚でのみ、野良猫を持ち上げる形で三森が自分の乱れきった髪を引いているのがわかった。


 三森の澄ました顔がぐっと近づく。小さくてつんと尖らせた唇が又兵衛の鼻頭に近づくので、どこを向けばいいのかわからなかった。一方で、少年の瞳はやや眇められ真剣である。

 ふっ、という音がして、幽かな風を鼻先に感じる。一寸後に、頭の中で暴風が吹いたような震蕩しんとうがあった。意識が遠のき、視界が暗くなる。目の前で幾度も火花が散った。


 再び正気になると、視線がずいぶん高くなっていた。三森と目が合うが、先ほどとは違ってこちらが見上げられている。

 恐る恐る手を動かす。たしかに動いた。顔に触れてみる。爪を立てればじんと痛い。違和感はなかった。戻ったのだ。頭を動かして腰を曲げて、全身を見るも至っていつも通りの体になっている。

 「いつも通り」、そう思ってすぐ又兵衛は自分自身を恥じた。本来罪人である自分はあの首だけの姿であり、五体満足の状態に胡座をかいてはいけない。娘への償いはそこから始めるべきだった。

 蕗は三森が持った生首を見ていた。もう今の又兵衛を見ることはできないらしい。二度と娘とは目を合わせることはできないので、又兵衛は彼女が見つめている自分の顔を眺めた。ずいぶん苦しんで死んだらしい憔悴した表情。他人に持たせるのが忍びないほど無残で腐りかけの顔。その肉体に、やっとで心が追いついた。


「これで戻った。又兵衛は死霊としてここにいる。この首ではなく」


 三森が蕗に語りかけた。


「ねえ、もう話しても聞こえない?」


「ああ」


 三森の言は正しくない。依然蕗の姿は見えるし、話している言葉だって明瞭だ。だが、それを又兵衛が主張しても蕗には聞こえない。ということは、すべて分かっている三森には何か意図があるのだろう。


「それなら、父ちゃんに伝えてほしいことがあるの。──私のこと、ずっと覚えてて。私も、これからは父ちゃんがここにいると思うから。……会えてよかった」


「そんなことだろうと思った。ああ、言っておこう」


 蕗の頼みを三森は請け合った。彼は蕗からこの言葉を引き出したかったのだ。

 朝日が顔を出す寸前、蕗は何度も振り返りながら山を下りていった。その顔にはもう翳りはなく、あの侍たちと同じ、日常へと戻る晴れやかな表情を浮かべていた。

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