十二 刎頚之行

 少年の顔がゆっくりと又兵衛たちを振り向く。無機質で色のない表情で、首だけの体を動かしている男を一瞥した。


「面倒を起こしてくれたな、又兵衛」


「いや、おれにもどうしてこうなったかよく分からなくてよ……まんず来てくれてくっで助かった」


「呼ばれたんだから来るに決まってる。見くびるな」


 胴がついていたならば、文字通り背筋が凍っていたことだろう。


「あなた誰、ほとけさま?」


 憮然としてことの成り行きを見守っていたふきは、三森みつもりに控えめにそう訊いた。年頃は近く見えるが、彼が異質なものであることはもう察しがついているようだ。三森はその手の問いには慣れているのか、あるいは蕗がまだ生きているからか、「さあ」の一言だけで応えた。

 小首を傾げた蕗に対して、三森は手を差し出した。


「首をこちらに渡せ」


「……嫌。せっかく会えたのに」


 蕗は別離を察したようだった。その聡さに反して幼く駄々をこねて、又兵衛の首を胸元に引き寄せた。


「それがだめなんだ。お前の父親はすでに死んでる。本来この山に集まった死霊は、土の下の肉体に『呼ばれる』──徐々に吸い寄せられることで森と里との往還を果たすべきなんだ。特に死んで間もない頃の、分離したばかりの肉と魂を無理に引き合わせてはならない。今のこの男のような、動く屍が生まれるから」


「よく、わからないのだけど」


「わからないだろうから言ってる」


 三森の声は淡々としている。

 蕗がむっとした表情を浮かべた。

 一方の又兵衛は、難解な語はさておき、自らの状況には少し納得がいった。一昨日の晩に三森と約束したことの一つに「呼ばれる」まで山を下りない、というのがあった。山を下りるとは、魂──先頃までの五体満足の体か──が、森から墓の下の遺体に戻ることを指すのだろう。又兵衛の今の姿は、「呼ばれる」経験をせず、強制的に遺体と引き合わされたことで奇妙な形で融合してしまった形ということだ。

 動く屍、という三森の言葉が現状を端的に表しているが、我がことながらどうにも滑稽で恥ずかしい。かといって顔を背けることさえ一人ではできず、又兵衛はそのまま蕗と三森を見つめるしかなかった。


「今の父ちゃんと話したらだめってこと?」


「そうだ。本来、死者と直接に言葉を交わすことは不可能だ。その前提の上にこの世は成り立っているし、死者も生者も落とし所をつけて各々の道を辿る。それなのに動く屍と僥倖とするのは山の秩序を乱しかねない、死の冒涜に等しいことだ。……首を渡せ。今あったことは夢とでも思うんだ」


 三森の言を受け、蕗はひどく躊躇しているようだった。何か言おうと口を開いたが、逡巡してそのまま閉じてしまった。

 柔らかくて冷たい手が、又兵衛の乱れた髪を幾度か撫でる。蕗がこのように間近にいるのは四年前、奉公先を出て行く日が最後だったように思う。生き別れた娘と再会した喜びは確かに胸をひたひたと満たしている。しかし同時に、生き別れることになる選択を何度もしてきたのは又兵衛の方であった。

 遺言通りに彼女を預け、たまの休みに顔を見に行くことだってできたろうに、その暮らしぶりを思うだけで会うことはしなかった。そうして心の何処かで又兵衛の方から蕗の手を離し、誤った方法で繋ぎなおそうとして命を落とした。

 あまりにも愚かな男に、娘を引き止めて首一つで共に在る資格が皆無なのは火をみるより明らかだった。

 どう宥めたものかと、又兵衛は迷う。父親として接することだって四年ぶりのうえ、成長した娘に言葉をかけるのは難題だった。


「……お蕗。お前、清水の家では辛くはないかねが


 できる限り厚かましくない、しかしぶっきらぼうなわけでもない声色を探って尋ねた。蕗は又兵衛を見つめて、顔をほころばせた。


「うん。みんな親切だよ。掃除が得意で褒められる。ほとんどたみ姉ちゃんと正助しょうすけ──従兄弟たちのきょうだいみたいになって、二人と村の子と一緒に遊んでるよ」


 村でのことを話す蕗の目はきらきらとしていて、言葉に嘘はないようだった。又兵衛は心から安堵した。

 しかし、その表情はにわかに曇った。


「……でも、おじちゃんとおばちゃんのことを父ちゃん、母ちゃん、って呼ぶと、たまにすごく悲しくなる……何日か前にじじから、父ちゃんが死んで奉公の話は破談になったって聞かされて、おじちゃんおばちゃんからも『これからは本当にほんとで俺達おいだの娘になるんだよ』って言われたの。従兄弟たちも喜んでくれた。でもみんななんで死んだのか教えてくれなかった」


 又兵衛は瞠目した。清水の家にも又兵衛の報せが入っていたのだ。そして蕗の奉公が取りやめになったということは、報せたのは又兵衛の主人だろう。


 破談にしてくれた。主人としては蕗がいることで外聞が悪くなるのを避ける判断かもしれなかった。しかし彼女を清水で養子にしてくれるのは、又兵衛から切り離すことで蕗自身に降りかかる悪評を防ごうと動いたということだ。又兵衛は蕗の周りの人間たちに感謝した。

 ただ、蕗がその事実に悲しむことはいたたまれなかった。現に彼女は父の首を抱えている。

 今更になって、又兵衛ははたと違和感に気づいた。そもそも、なぜ蕗が又兵衛の首を持っているのか。


「お前……」


 蕗は眉を下げて頷いた。しでかしたことの重みをわかっているというように。


「その日、大山の町まで出たら『亀ヶ崎城で鶴ヶ岡の又兵衛というでぃう人が窃盗をして、今日湊で死罪になる』って噂で聞いたの。土田の組頭さまのところの奉公人だって話だったから、きっと父ちゃんだと思って」


「それで盗ってきたのか」


 訊いたのは三森だった。驚いたというより、腑に落ちたときの声だった。おそらく山頂に着いて一目見た瞬間から察していたのだろう。

 ばつが悪そうに蕗が身を竦める。


「いてもたってもいられなくなって、一緒にいた清水のうちの人から離れてそのまま酒田まで行った。無我夢中で走って、持たされてたお金で川を渡って……」


「じゃあお前、おれが切られるのを見てたか」


 最悪を想定して又兵衛は懼れたが、蕗はまっすぐ否定した。


「ううん。見てない。着いた頃にはもうすっかり夜になってて、誰もいなかった。刑場の正面に吊るされてた顔を見たらああ、父ちゃんだってすぐわかったよ。でも何もできなくてぼうっと立ってたら、母ちゃんはお墓に入れたのに父ちゃんはそうじゃなくて、こんな風に大勢の人に見られるのかと思ってどんどん可哀想にめじょけねぐなってきた。

 そしたらお坊さんが通りがかって、私見つかっちゃったの。事情を聞かれたから嘘もつけなくて全部説明した。話すうちに泣いちゃった私に、その人は『せめてお墓に入れてやりなさい』って、父ちゃんの首を台から外してもたせてくれた。お経も少し唱えてくれて。それでお寺まで行こうと一日かけてこっちまで戻ってきたの。でも村の人に見つからないようにこの山でやり過ごしてたら日が暮れちゃったから、ここにいた」


 堰を切ったように、蕗の口からはこれまでを語る言葉が溢れ出た。子供の胸に秘めるには長すぎる旅路で、大きすぎる出来事だった。


「そんなことが……」


 言葉をなくした又兵衛のそばで、三森もまた深く考え込んでいた。

 後押しした人間がいたとはいえ、蕗は七里半を往復して又兵衛を運んだのだ。それほどまでに彼女にとっては未だ、父が大きな存在だったということである。自らのあまりに軽はずみな行為がここまで人を動かしたことに、頭がぐらついた。


「……ねえ、なんで父ちゃんは悪いことしたの。どうして死んでしまったの」


 少し言い淀んでから、蕗は思いつめた顔で又兵衛に問うた。ずっと訊きたかった、と付け加えて、父の首に回した手を強く握りしめる。蕗は直裁な答えを求めていた。鈍く冷たい皮膚から、又兵衛にもその震えが伝わる。

 心細いのだ。いくら親類との仲が良くとも、両親に死に別れて蕗は一人きりになってしまった。そして又兵衛こそが蕗から父親を奪った張本人である。それもあまりにも浅慮な行いで。

 自分が去ったのちも、人の世は続く。又兵衛は重く貫かれるように理解した。そしてようやく、己の罪が浮き彫りになった心地がしたのである。

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