六 始夏の日和

 又兵衛がモリの山に移ってから、昼夜がそれぞれ一つずつ過ぎんとしていた。その間、彼は森の中を彷徨っては眠り、目覚めては彷徨いを繰り返した。意識は冴え渡るときと何もかもが曖昧になるときで極端に分かれていて、日に何度もその波がやってきた。


 日中明るい中で歩き回り、大まかな位置関係を感覚的に悟った。はじめに又兵衛が立たされた場所は、三つ連なる小山のうち真ん中の森らしい。

 尾根続きの北にひとつ森があり、その向こうには水田と鶴の城下町がわずかに見えた。北の森には小さな堂がいくつかまばらに建っていて、なるほど村の人間はこのようなところで供養をするのだと思われた。

 南に行けばまた森となる小峰があり、そこにも一つ、堂があった。さらにその南にも山並みは続いているようだったが、南の森で尾根は途切れて急な下りになっていたこともあって、深入りして道に迷うのを危ぶみやめにした。


 山中を巡ってみても、又兵衛の他に動くものは全くなく、鳥の声ひとつ聞こえなかった。心地が漠然としている時はその方がいい。そうは言っても正気でいる時はどうにも寂しく、つい北の森に行ってしまったり、西の麓にある村に目を向けたりしてしまう。


 西の村は清水だった。もちろん人っ子一人見えない。それでも家々の藁を葺いた屋根や、飯を炊くらしき煙がのぼるのはわかった。どの家が妻の生家かは定かではないが、あの中のひとつには、今も娘が暮らしているのだ。そう思うとどうしようもなくモリの山を駆け下りたくなった。

 しかし、少年には約束を守ると言ってしまっている。山を下りていいのは「呼ばれた」ときだけだと。「呼ばれる」のがどのような感覚かはまだわからない。しかし、今がその時でないことは確かだった。はやる気持ちを抑えようと、適当な堂の中に入って昼寝をしているうちに日は沈んでいった。



 二度目の晩も、又兵衛は早々に寝入った。少年に連れてこられた昨夜は朝日が登るその瞬間まで深い眠りにいた。どれだけ寝ても不眠になることもなく、叱責する者もいないのは快適と言える。主人の外出に合わせて毎日夜更けに寝て夜明け前に起き働いていた頃とは随分違う。

 昨日は草の上に寝転んだが、それも悪いかと思って明るいうちに寝床の目処をつけておいた。北と真ん中、二つの森の間で谷のように凹んだところにある堂の軒先である。

 その日もよく晴れて涼しく、どうせなら外が見えるところがよかった。


 ──晴れてるなあ。


 昨夜よりゆっくり昇ってきた月はまた太って満月に近づいた。今でも十分まばゆいが、これが満月になればどれほど森を照らすのだろう。普段ゆっくり空を見る暇すらなかった又兵衛は、のんびりと明媚な空模様を眺める。


 ──ああでも、そろそろ雨かもしれない。


 亀の町で四月に開かれている山王祭さんのうまつりは、五日後に迫っていた。鶴の町でもその五日後に化物祭ばけものまつりがある。毎年、山王祭と化物祭はどちらかが決まって雨になると言われていた。真相ははっきりしないにせよ、鶴の町人はこの季節になると、化物祭の晴れてほしさに「早く雨降れ」とぼやくのだった。


 ──「それ湊じゃなんて言うの」、だっけなあ。


 意識がまたほんのりと薄らいできて、又兵衛はその中でいつかの思い出に揺蕩たゆたった。


 祭りの日は奉公先がいっそう賑やかになる。来客もあるので、下働きの者たちは平時より忙しく働かねばならない。しかし、祭という浮ついた雰囲気のせいで皆の表情は明るかった。それに、祭が終わった数日後に与えられる二日三日の休みが楽しみなのだ。その辺りでは三々五々里に戻ったり、寺や神社を詣でに行ったりする。

 又兵衛はもっぱら、与えられた部屋で妻と娘とのんびり過ごすだけだった。だが妻の亡くなる前の年だけは、鶴の城下からほど近い湯田川ゆたがわという温泉街まで三人で出かけて行った。

 その日のために貯めておいたなけなしの金でつかの間湯に浸かり、飯を食い、古い神社にも詣でた。抜けるような青空で、行き帰りの道の脇では田にその色が映り絵と見紛うばかりだったのを覚えている。


「化物祭から晴れ続きだ」


「二十日は雨だったからさげの」


 帰路、傾く日で黄金色に染まった世を見つめて、妻の比奈は顔をほころばせていた。歩き疲れた娘をおぶった又兵衛もそれに頷く。


「二十日が雨だとなんで晴れるの?」


 不意に背中から不思議そうな声がかかった。又兵衛と比奈は、両親の会話の意図を掴みかねている娘に二つの祭りの迷信を聞かせてやった。娘はすぐに理解した風で、今度は「湊じゃなんて言うの、ただ晴れろってお願いするの?」と尋ねてきたのだった。考えたこともないようなことを訊くものだから、又兵衛は「そうかもなあ」と曖昧に応えるしかなく、娘の利発さに喜んでいたものだ。


 娘はまだ七つで、亀の町には行ったことがなかった。今度は亀の町にも行こう、祭りも湊も見て来ようと言っていた矢先、比奈が労咳で倒れ、あっけなく逝ってしまった。

 今際の際、妻から娘を清水に預けてほしいと頼まれた。常に主人の遠出に付き従う又兵衛の勤めを慮ってのことだ。しかしその勤めが祟って、結果的に清水の家とは疎遠になってしまった。


 今頃は何をしているだろう。無為に部屋の中で過ごす四月末の休日は、そんなことをいつも考えていた。そしてその度に、あと何年したらここに戻ってくるのだ、とも思った。妻の年季はまだ残っている。その消化のため娘は働くのだ。

 再び娘と暮らす将来に又兵衛は期待もあったが、彼女自身の人生を親が規定してしまうことにはひどい罪悪感が伴った。何が彼女にとって幸いか、考え出すときりがないので、その日以外は彼女のことはいつも胸の奥底に潜めていた。


 楽しくも悔恨の残る過去に浸るうち、いつの間にか又兵衛は眠りに落ちていた。

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