五 三森山の掟

 城下町は東に見える。このまま通り過ぎれば間も無くモリの山に着くはずだった。

 その手前、大山おおやまという小さな町が目の前に迫っていた。ここにも誰もいないようで、町並みは閑散としている。どこに行っても又兵衛と少年の二人きりだった。


「……なあ、おは何者なんだ? お前はなして、おれに見えるし触れる?」


 湿っぽくなった話を逸らすべく、又兵衛はずっと気にかかっていたことを訊いた。

 少年が泥田から足を引き抜く。もう片方の足が町の均された土を踏むときには、宙にあげた足からは水っぽい黒色が滑り落ち、綺麗な白に戻っていた。

 幼げな相貌には、その手と同じく温度がないのだろう。


「見ての通り、僕は引導いんどう役だ。おまえたちに見えるのは、僕が死人じゃないし生きてもいないからだ。だから紗膜と死霊の隙間に手が届いて、山まで引いていくことができる。そうしてずっと死霊たちを見張っている」


「引導役……?」


「つまり、僕はお前たちが死んでから、恙無つつがなく死霊として過ごせるようにするための存在だ。おまえに見えるのは、僕にそういう役目があるだけ」


「ふうん……」


「この地では毎日何人もの生者が死ぬ。その世話で僕は忙しい。一人一人にかけられる時間もそう多くない。面倒をかけさせるなよ」


 少年はそう言い終えると足を止めた。いつの間にか、二人は木々に四方を囲まれている。モリの山に着いたのだ。


 生い茂った葉に視界のほとんどを遮られながらも、天上にはちらつく星が見える。明りを発するのはそれだけだった。あたりは濃い闇に包まれて、隣にいるはずの少年の顔すら見えなかった。

 鳥も虫も蛙も鳴かない、静かな山。しかしここには又兵衛のような死霊が集っているという。その数は百とも千とも知れない。目の前に妻が立っている可能性だってある。


「ここが、モリの山……おれ、初めて来たなあ」


 恐ろしさはなかった。むしろ、この暗闇に安らぎを覚える。自分の輪郭がぼやけて、僅かに吹きかける黒い風と一体になってしまいそうだ。それがなんとも心地良い。


「おまえがほろける前に言っておきたいことがある。よく聞け、いいか」


 少年が緊張感のある声でそう告げ、又兵衛の手を強く引く。その手は未だ繋いだままだった。又兵衛は眠りに誘われるような心地から立ち返り、背筋を伸ばした。


「ああ、大丈夫だ」


「では、まず一つ。興味本位で山を下りるな。この山は死者のための世、里は生者の世。その道理に逆らうな。ただし、全く下りてはいけないと言っているわけではない。『呼ばれ』たら、その時はそれに従え。まあ、時機が来れば分かるだろう。

 二つ。草木を無闇に荒らすな。あれらもまた、生きている。死霊は腹も空かないから、食おうなどと思って摘むのはよせ。

 三つ。もし山の中で僕以外の影を見かけても、追いかけてはならない。この森にはお前しかいないと思え。……何か見かけたとしても大半は見間違いだ。繰り返すだけ疲れるだろうから、今のうちに言っておく。どうだ、この三つは守れるか」


「わかった。下りない、荒らさない、気のせい、だな。なに、奉公よりも簡単だ。できるできる」


「おまえは軽率なようだから心許ないが」


 少年の眉がひそめられるのが、見えずともわかるようであった。又兵衛は笑ってそれに応える。暗闇の先からまた、ふっと鼻を鳴らす音が聞こえた。


「……もし何か起こったら僕を呼ぶといい。なんとかするから。そうは言ってもこちらは忙しい、常に応えてやれるわけではないが」


「おれはお前の名を知らないんだが……」


「この山の名で呼べ。三森みつもり、と」


 山の名が彼の名前なのであろうか。人でないなら、そういうものなのかも知れない。又兵衛はそう納得して、頷く代わりに手を握り返した。


「わかった。まあ邪魔しないようにするからさげ


「頼むぞ」


 その言葉を最後に、彼の手がするりと離れる。草を踏みしめるひそやかな音がして、少年がまたモリの山を去るのだと気づいた。

 微風そよかぜが吹きつけて、右手に心許なさをもたらした。これからここにずっと一人、そう思うとどうにも別れが惜しい。


じゃあなひばの


 いい年をして情けないことに未練がましい挨拶になった。しかし、十歩も離れたような先からは、木々の葉擦れに紛れて硬質で甘い子供の声が返ってきた。


「……ああ。じゃあへば


 この土地の言葉、訛りを聴いて又兵衛は笑う。微風はほどなくして収まり、あとには又兵衛だけが残された。


 少年は風を連れていなくなった。徐々に目が慣れてきて、きょうとして光る月が林床をまだらにしているのが見える。

 何者の息遣いもなく、静まり返った森の中に一人。ここまで無音であれば、襲いかかってくるような熊などもいそうになかった。


 ──まあ、いたとしてもおれは見えないらしいが。


 誰も見えないのも誰にも見られないのも、不便なようでいいこともあるらしい。それをいいことに、又兵衛は思い切って草の上に寝転がってみた。食うのではなし、このくらいなら荒らしに入らないだろう。顔に触れる草が柔らかい。目を開ければ夜空が眩しい。


 先ほど闇と一体になるように思われた一方で、いまはおのが身が土と等しく感じられた。身体の重みに任せ、放心して天へ走る枝ぶりを眺める。

 ばく。漠として星の流れを見守る。明るい星、小さな星、それを呑み込む巨大な月の明かり。漠。もう自分が何をしていたのか思い出すのも億劫だった。やがて戯れに瞼を閉じると、開けることすら面倒になった。

 頭の中の靄はどこまでも広がり、又兵衛を深い眠りへと誘う。それに抗おうなどという思いは微塵も湧き出ではしなかった。

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