四 紗膜-えな-

 二人は今や最上川を渡り終え、平野一面に広がる田の上を歩いていた。空には先ほどの月が光を増している。筋雲がわずかにかかっているが、星の瞬きも良く見えた。

 足元では田植えがほとんど済んでいて、根づきかけの苗が綺麗に並んでいる。少年はそれさえ踏まねばどこを歩こうが御構い無しのようで、足首から先をこだわりなく沈めていた。又兵衛もそれに合わせて歩かねばならず、どろどろの足で早苗を踏みつけぬよう必死になっていた。


「なあ、山ってどこの山まで行くんだ?」


 二人は広大な沃野を一心に南へ進み続けている。海に面した西の松林以外、東も南も背にした北も山ばかりだ。戸惑う男に少年は目もくれずに答える。


「おまえは鶴ヶ岡の、それに洞川の人間だ。死霊は皆、手近な山に集まるものだ。あのあたりの人間は皆、三森山みつもりやまの領分となっている。だからそこまで」


「三森……ああ、モリの山か!」


 その名を聞いた一瞬、霧が払われたように頭が冴えて、又兵衛はようやく山へ行く意味に思い当たった。


 三森山は、鶴の城下町の南に連なる山地が一点張り出した低い山である。尾根が三つ盛り上がっていることから三森山と呼ぶ者もあるが、モリの山という名での方が知れ渡っていた。

 黒く見えるほど濃いこんもりとしたその森には、死者が集まっているのだという。

 洞川からも東にあるその山姿は良く見えた。盆の数日間だけ立ち入るのが許される山。その決まりを破ると恐ろしいことが起こるのだそうだ。死者と出会うだとか、取り憑かれる、紫色をした大蛇や大鹿を見るなどとはよく言われたたものだ。数々の怪談話は誰もが聞き知っていて、それでも付近の村の者は盆にはそこへ供養に参るのである。


 特に又兵衛の妻が生まれた清水しみず村は、モリの山のすぐ傍にあるためその風習が盛んだった。又兵衛もまた、彼女の初盆には山へ行くよう清水の実家から言われていた。

 しかし時機が悪かった。その年の盆の直前、運悪くも又兵衛の主人の大叔父にあたる藩の重臣が亡くなった。そのため奉公先で葬儀やら法事やらの遣いをして慌ただしく、盆の時期を逃してしまったのである。

 辺りの田も稲刈りを終えて肌寒くなった頃にやっと清水へ顔を出せば、妻の両親も彼らに懐いた娘も、又兵衛によそよそしかった。その気まずさのため、結局以降は顔を出さずじまいになり今に至る。


 このような経緯があったために、モリの山と言おうとすると舌が縺れるような心地がした。もちろん今でも妻の死を悼んでいるが、形が残るような供養は何もできていなかったせいで胸が痛い。

 それもまた、妻と同じ死者の側となってしまった以上やり直しもきかないことではあるが。


「そうだ、ならモリの山行けばお比奈ひなにも……おれの女房にも、会えるか?」


 はたと気づいて、又兵衛はつい大きな声をあげた。歩みを止めず顔だけ振り返った少年は、心底うんざりしたとでもいう風なしかめ面をしている。それが目に入っただけで、軽薄な望みが叶わないことは容易に知れた。

 それでも少年は言葉を重ねんと口を開いてくれる。


「おまえ、妻も死んでるのか?」


「ああ。労咳ろうがいで……あれ、いつだったか思い出せねえ……流行った年の春だ」


「四年前か。……いいか、死霊は一人一人がしゃでできた膜を被いて、それ越しに世に罷るものだと思え。この膜は紗膜しゃまくとか、赤子になぞらえて『えな』と呼ばれる。お前はそれを身につけることで生者の言う『この世』から離れている。大抵の生者は紗膜えなを身につけた者を見ることはできない。死霊もまた、膜越しには生者を見ることはできない」


「ああ、だから」


 湊町では人っ子一人見かけなかったわけだ。再び靄がかりはじめた頭に、先に見た空っぽの店の並びが思い出された。

 いま南東に見えるほの明るい家々は、城下町の端の方か。ここでもいつも通り皆が生きているはずだが、又兵衛には誰も見えはしないのだろう。


「紗膜は死霊同士にも作用する。死霊は山の中で互いの姿を見ることもなければ、手が当たろうが足を踏まれようが気づきもしない。そうなるようにこの土地はできている。ゆえにおまえは妻と会うことはできない。『この世』での別れが人との関わりの全てなんだ」


 わかったか、と訊いた声には、従えという色と忍びないという色が半々であったように又兵衛には感じられた。それに文句を言うほど無神経でもない。

 それに、妻に対する未練はあれど、会ってまず供養できなかったことに侘びを入れるのでは失笑を買うに決まっている。そうなるよりは。


 ──そうなっても、一目会いたい。


 明確に思えば、際限なくこみ上げてくる懐かしさがあった。それを表に出さぬよう、誤魔化そうとして少年の細い手を強く握り、大きく振ってみせた。

 妻とは病の床で話してそれきり。これまでもこれからも、それで終いなのだ。自身に言い聞かせるように何度もそう念じた。


「そうか。なら仕方ねえなあ」


 努めてあっけらかんと聞こえるように言ってみる。少年はといえばどこか安心したように少し息をついて、そうだ、仕方がないんだと繰り返した。



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