二 死霊と日没

 目を開けると朱一色が広がっていた。血だまりかと思ったが、視界の端に揺れる松の黒い木立から、自分が天を仰いで延びていることが知れた。夕暮れである。

 四月といえど昼間よりも冷え込む。思わずくさめをして半身を起こすと、不意に違和感に襲われた。確か、首を切られたのではなかったか。

 震える手で顔に触れれば、数日剃れていない無精髭もそのまま、今朝からまるで変わりはない。首元に手をやってもおかしなところは何ひとつなかった。


莫迦ばがな……」


 漏れ出た声は誰もいない刑場によく響いた。


「目が覚めた?」


 突然子供の高い声がして、男ははっとして振り返る。

 背にした松林に紛れて、刑場に少年が立っていた。


 背格好からしてとしの頃は十三、四ほどか。いつぞや主人の供をして見た能衣装にも似た、古めかしい形の衣を着ている。表情は迫る宵闇で翳っていてよく見えない。肩にも届かぬ短髪だが、括っていないために目元に垂れていっそう顔が見えづらかった。

 しかし、その少年が異様な冷たい空気を纏っていることはよくわかった。

 男はどうしてだか蛇に睨まれた蛙のごとく身動きが取れなくなり、背中に冷や汗が滲む心地悪さを感じた。まるで悪い夢でも見ているようだ。あたりは奇妙な静寂に包まれ、きんと耳鳴りがする。

 無音を打ち破ったのは少年の衣擦れの音。彼はおもむろに男の元へ近寄り、その眼前に屈み込んだ。

 そこでようやく、振り分けられた前髪の間から少年の相貌が覗かれた。成長半ばといえど整った目鼻立ち。零れ落ちそうな瞳は見たこともない紫紺色で、色白の顔によく映える。いっそ白すぎる気もして不自然だが、総じて見るとその齢に特有の中性的な甘さがあった。


「おまえ、自分の名はわかるか」


 男の間近で少年はそう問うた。口調には張り詰めた色があるが、声変わりを迎えていないらしい鈴の転がるような音をしている。

 少年のぞっとする魅力に抗えず、男は掠れた声色で応じた。


「……又兵衛まだべだ」


「生まれは。齢は幾つだ」


「村は田川たがわ洞川ほらがわだ。ええと、齢は今年で三十七になる」


 続けられた問いに正直に答える。紫の瞳に見つめられれば、その先に透けて生まれ育った村の景色がありありと思い出された。水が入ると鏡のようになる田の間に拓かれた小村。村の中には川が流れていて橋もあり、鶴の城下へ続く北側以外は低く連なる山々に囲まれていた。そこで暮らしたのは今の主の奉公人となる十七までだったが、村はと訊かれればいつも洞川と答えるくらいには、そこでの生活が染み付いていた。

 いっとき懐かしさを噛み締めながらも、又兵衛は依然としてこの童の言動に懐疑的だった。只者とは全く思えない。

 だから、続けざまに彼の血色の悪い唇が紡いだ言葉には妙に納得するところがあった。


「又兵衛。おまえはさっきここで死んだ。今のおまえは死霊しりょうだ。死んで魂一つになったんだ」


「……死んだ? おれがか? …………やっぱりなあ」


「驚かないか」


「だって先刻さっきだいでがったし、首も切れたとばかりばり。んでも今は首も付いてっから……そうか、おれはやっぱり死んでだか」


 又兵衛は己が両手をしげしげと見つめた。生きているときそのまま、土に手をつけばざらざらと細かな感触がしたし、先ほどから吹く風は背筋に寒い。「生きていたとき」となんら変わりない。昼間首を落とされたことこそが夢のようなのに、しかしこの少年は今この時の方が夢だという風に言う。


じゃあだば、おはおれのお迎えか?」


「そう」


 そうだと言うのだからこの童はやはり人間とは少し違うのだ。妙な格好も変わった色の目も、仏さまとか阿弥陀さまとかの化身だからなのだろうか。

 ありえないことが起こっているはずなのにするすると飲み込めてしまうのは、目覚めてからずっと頭に靄がかかっているせいだった。そのために、いつも足らない頭がさらに回らなくなっている。


「僕はおまえを迎えに来た。……答えろ、おまえは自分が死んだ理由がわかるか」


 少年の声もまた、又兵衛を微睡みに似た柔らかな心地に誘う。


「それはあれだ、お城から小判を山ほどごんげ盗んだせいで『打首獄門』になったんだ」


 請われるまま辿れるだけ記憶を辿り、嘘偽りなく事実を答えた。法度はっとでは十両で死罪のところ、又兵衛は二十両を持ち出した。主人より先に城を出ようと厩へ行った頃、城中が騒ぎになり、蔵のあたりをうろついていた又兵衛の目撃者によって早々にお縄になった。

 あっけらかんと言ってのけた又兵衛を、少年は呆れたようなうんざりした顔で見つめた。それからまた、彼は胡粉じみた色のない唇で問いを重ねる。


「それはどうしてだ。……お前が打ち首になるほどの罪を犯した、その理由はなんだ」


 答えんと口を開いた瞬間、城中の薄暗い蔵と、小さな手のまろい輪郭が瞼の裏をよぎる。


「……さあ、なんだったかな」


 大げさに目を逸らす。へらへらした笑みを顔に貼り付けてみれば、少年がふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。なんでも見透かしているとでも言うような不遜な態度である。

 又兵衛は少年から目を離したまま、暮れていく空の下、家々から漏れ出ではじめた城下の灯りを眺めた。坂の途中にある刑場からは存外にいい景色が望める。太った夕月がほのかに色を宿す頃合いで、その手前では天守の瓦屋根が薄藍の闇に半ば溶けていた。


 おかしなこともあるものだ。目覚めたときはこの世の終わりのような赤い空に驚いたが、今この世で終わりを迎えたのは又兵衛ただ一人であるという。この寂寞が死であり、窃盗の罰として又兵衛に誂えられたものなのであろうか。

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