第一話 刎頚之行
一 怠惰な男
その藩には城が二つあった。藩主の住まう南のそれを鶴の城、北の
湊町の北西の一角、寒々とした刑場からも、
「この男
大柄な
男は金が欲しかった。主人の機嫌をとることも、鍬を握ることもせずに暮らしていけるだけの金が。不意に生まれたその悪心による犯行は、「軽はずみな」と町奉行に一蹴された。たしかに怠け心で命を落とすのは莫迦らしい。動機を白状した男自身にも、おのれが滑稽で矮小なものに思われた。
だから、斬首という判決にも不思議なほど反発心は起こらなかった。愚かさのために呆気なく命を落とす人間はこの世にごまんといるだろう。その一人だったというだけだ。致し方なし、という言葉ですべて許されることを願いつつ、牢の中で日が過ぎていくのを今日まで淡々と数えていた。
一陣の強風に怖気がして、男はくさめをした。
その時分になってやっと、男は刑場の殺風景な景色や人々すら、もう永遠に見ることができないと悟った。まして、ここにいない者など。その気もないのにいつの間にか今生の別れを迎えていたようである。それがなんとも佗しくなる。
誰かが近寄り男の身体を支え起こした。逃げ出さないためか、抑え込む人間は一人ではない。そのまま背中を押されて歩き、膝をついて首を前に出せという言葉に従った。
後方から一層大きなざわめきが聞こえる。又兵衛の腕の麻縄が強く引かれた。
ついにすぐそばで抜刀の音がした。仕えていた主人が佩刀の手入れをするときもこの音がしたのを覚えている。気鋭の刀工の作というそれが大変な気に入りようで、昼夜かまわず私室から刀を抜き振るう音がするので、娘はよく折檻されるのではないかと怖がっていた。いつもは妻が笑いながらなだめるのである。
最期になって、男は自分の娘のことを思った。それまでは敢えてその姿も名も脳裏に結ばないと知らず決め込んでいた。同じ家で女中をしていた妻が死に、彼女の実家に引き取られたが、十三を待って奉公に入ると約されていた一人娘。今年で十二歳になる。
男は金が欲しかった。主人の機嫌をとることも、鍬を握ることもせずに暮らしていけるだけの金が。主人の供で亀の城に入ってから、ぼんやりとした小さな面影が幾度もちらついた。それを振り払わない怠け心によって、男は罪を犯したのだった。
裁かれるときも決してその名を出さず、愚かな男として振る舞った。事実愚かな男である。娘に不自由をさせたくないのならばもっと他にやり方があったことくらい、
獄中で思い当たったが、しかしそれもまた向こうからすれば傍迷惑な話なのであろう。今となっては、疎遠になっていた家で暮らす彼女にこの罪の余波がいかないことを祈る資格もないのだ。
「やれ」
先の同心の声がした。男は首元の肌が粟立つ中、白布に映る遠い面影の娘に目を凝らす。
ようやく思い出されたいとけない微笑みは、焼けるような一瞬の痛みに塗り替えられた。
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