台湾編 本章 ルート『狂信』
HARD MODE
――地上50階。『執行官長室』。
「失礼します。WBO『執行官長』、コードネーム『アーサー』」
「そういう君は、
穏やかな物腰で語る若人だったが、しかし、その手がデスクの上にある
「わたしが死んだら、このあたり一帯が吹き飛びますよ」
「……私の『異本』が、人の生死を操れると知っていたのかな」
若人は言って、瞬間、伸ばした手を止めた。しかし、改めてその手を、『異本』へ向ける。……だが、その手は結局、『異本』へは触れずに、その隣の、器に大量に盛られた、煎餅を掴んだ。
「いいえ。ただ、わたしは死を覚悟してここへきた。というだけのことです」
「なるほど。であれば、話し合いがしたい、ということだね」
死すら想定した者が、敵の不意を突かずに、正面から正々堂々やってきた事実を前に、若人は、そう理解した。紳士は、まっすぐと彼に目を合わせるだけで、その問いに肯定する。
「ちなみに、聞いておこうか。君が死んだら、いったいなにがどうなって、この一帯が吹き飛ぶのか」
まあ、推測はできるけれど。と、若人は付け足す。さらに、「あ、煎餅食べる?」と、間の抜けたことも追加した。紳士は丁重に、それを断る。
「ご存知のようですが、わたしは『
「己が肉体を爆弾とし、爆破させる『異本』だね。リスクが高いぶん、威力も相当なものだと理解している。たしかに、
紳士は、『箱庭百貨店』を掲げ、見せつける。
若人は、煎餅を齧りながら、榛色の『異本』を手元に引き寄せた。
だが、両人とも、言葉で現状を解決する腹積もりであることは、目的が一致している。そのように互いに、理解していた。
「……条件を整理しておこうか、白雷夜冬くん」
若人はデスクにやや前傾して、紳士のまっすぐな目に、まっすぐと返した。煎餅を食べるのを、一時、中断して。
「君は――君たちは『異本』を奪いにきた……。失礼。譲り受けにきた、そうだね?」
「ええ。穏便に、話し合いによって」
「結構。まあ、『異本』なんぞくれてやってもいいのだけれどね。……WBOが本日、解散されたことは知っているかな?」
「いえ、初耳です」
先の、「『異本』なんぞくれてやってもいい」という発言も踏まえて、紳士はわずかに、弛緩した。WBOが解散したというなら、なおのこと。少なくとも現状の若人に、『異本』を守る
「そうだね。WBO解散に伴い、私もこの『異本』を、もはや守る理由はなくなった」
紳士の内心を見透かすような言い方で、若人は言う。だから紳士は、緩んでいた気持ちを、引き締め直した。
「だが、そもそも私は最初から、『異本』になんぞ興味がないのだ。私の目的は、昔から変わらない。リュウさんの隣で、彼と同じ世界を見続けること。彼の役に立つこと。彼の行く末を、見届けること」
「…………」
少しずつ、わずかにだが、若人の口調は速く、低くなっていく。そこに紳士は、奇妙な同調を感じた。
「――で、あったのに。少し前に言われてしまったよ。『おまえは生きろ』、と。それはつまり、『
変わらぬ、穏やかな調子に見える。だが内心では、いかに葛藤しているか、辛苦を飲んでいるのか、紳士には理解できる気がした。
この人は、わたしと同じだ。そう、紳士は思う。
「
「『だから』? あなたの感情の因果が、わたしには解りかねますが」
「理解できなくて結構。だが、理は通しているつもりだ。……私は、リュウの目的を潰したいんだよ。彼の、死ぬ理由を」
そう言われて、紳士も理解した。理解、できてしまった。
「リュウ・ヨウユェは、死ぬつもりだと?」
「たぶんね。そんな顔をしていた」
根拠は、薄弱だ。だが、若人がその程度の理由で、この程度のことをしでかしている。その事実について、やはり紳士は、理解できたのだった。
その感情の、機微について。
「私はこう、推測したよ。リュウは『異本』を、君たちに託す気だ、と。WBO設立当時から、リュウは口癖のように言っていた。『異本』は、それを持つべきものの手に、あるべきだ、と。
嘲笑のように、若人はひとつ、息を吐いた。眼前の紳士を見下すように。重ねて、自分自身を、呆れるように。
「『異本』を託し、そして自らは命を絶つ。前者はともかく、後者はわけが解らない。だけど長年、彼を見てきた私が思うに、たぶん、なにかしらの引け目があるんだろう。ともあれ、リュウは
「つまり、それを防ぐため、リュウ・ヨウユェの思惑を阻止する、ということでしょうか。我々が『異本』を蒐集するのを、阻む、と」
そしてそのための、敵味方双方に対する、人員の分散。WBO――いや、若人にとっては、『異本』の一冊でも男たちに渡さないまま、守り切れればそれでよかったのだ。一冊の漏れなく『異本』を集めようとする男の目的を、それだけで阻止できる。そして壮年、リュウ・ヨウユェの思惑をも――。
「そういうことになる。……だが、私個人としては、やはり『異本』なんてどうでもいいんだよ。本当に心の底から、どうでもいい。どうせフルーアや、他の誰かが、一冊くらい守り抜くだろう。だからこの一冊くらい、無条件でくれてやってもいい。――そう思っていた。ここへ来るのが、君じゃなければ」
「どういう、意味です?」
「『箱庭百貨店』」
紳士の持つ赤い『異本』へ目を向け、若人は言う。
「私の持つ『異本』が、そこに収まるのは、非常にまずい。なぜなら、今回戦闘力として集めた人員の中には、この『異本』で蘇らせた者も数人、いるからだ」
「たしかに、『百貨店』に入れてしまえば、その『異本』を問答無用に使用することができる。あなたが蘇らせた者たちを、その『蘇生』の力を、解除することも、できますね」
「正確には蘇生ではなく、生死を操る『異本』、なのだけれどね」
「……ではその『異本』は、死者蘇生の『異本』、『
若人はわずかに、眉を上げた。かすかな驚嘆だ。おそらく、その『異本』の名を知っていたことへ対する。
「違う。これは『
たしかに、よく考えたら『死者蘇生』のみの異能しか持たない『Enigma』では、自分は殺せないか。と、紳士は納得した。だが、それなら都合がいい。
「であれば、ご心配は無用です。残念ながら『箱庭百貨店』には、啓筆を収めることができませんから。わたしがその『異本』を使うことはできません」
「…………」
いぶかしむように、若人は目を細める。
「そうなのか、知らなかったな。……だが、君がそう言うなら、そうなのだろうね」
そうして、少なくとも表面上は、容易く納得を示した。
それは、若人本人にとっても不思議な感情だった。だが、彼もやはり、感じていたのだろう。眼前の紳士と、自分は似ている、と。
「であれば、意地悪をして、渡すことを渋るのも潔くないかもしれないな。ふうむ……」
大仰な動作で顎に手を当て、これ見よがしに若人は考え込んだ。それを見て、紳士は思う。あれ、話がうまく進み過ぎている。いや、それは結構なことだけれど、なんとも拍子抜けだ。そのように。
だが、ここへ上がるエレベーターの中で、少女が言っていたことが気にかかった。「ヤフユには一番ハードなのを用意してるから」、と。
「……解った。いい。渡すよ」
やがて答えを出したのか、若人は言った。そうして、榛色の『異本』を持ち上げ、差し出す。紳士は警戒しながらも、彼に近付き、手を伸ばした。
「白雷夜冬」
その『異本』を掴んだ瞬間、若人は声を上げた。
「私は、納得したいんだと思うんだ。リュウが私を置いていくこと。私が彼の、助けになれないこと。あいつの、心を変えられないこと。……こんな無能な私に、私はそれでも、納得しなければならないんだ」
「……はい」
その感情を、紳士も感じていた。彼と相似した心を、彼と同じように。
だから、
「少し……時間はあるかな。話をさせてくれ。くだらない昔話を。それを、この『異本』を渡す、代償としよう」
言いながら、若人は手を離した。その時点で『異本』は、紳士の手に収まっている。だから紳士は、その要望を無視することだって、できた。
「拝聴します。そして、あなたが納得できる道を、探しましょう」
それでも、紳士はそう言った。自分と似た彼を、その境遇を、他人事だと思えなかったから。
同じように、誰かに『狂信』する、ふたり。
これは彼らの、納得への物語。
あるいは――
『異本』の始まりの物語。その、最終章だ――。
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