WBO


 1989年。ボローニャ大学。――あるいは、シリアから始まった『異本』の物語。それに翻弄される者たち。彼らはやがて、その異常を日常へと融け込ませていった。ひとりの若女の、彼女の苦悩だけを残して――。


 1990年。いまにして思えば、当時の彼女は、理解していたのだろう。そのように現代、壮年は考えていた。だが、どちらにしたところで当時の若男には拒めなかっただろう。若女と、将来を誓い合うことを。ふたりの間に、未来を育むことを――。


 1992年。ある事件・・・・によって、若女は絶命した。それすらきっと、彼女の思惑の内だった。未来は、次代に託された。

 だが、その未来は、当時の若男には受け入れられなかったのだ。彼は、絶望に飲まれ、人間としての道を踏み外す。彼女との誓いすら、ないがしろにして――。


 と、ここまでは、若人が壮年から聞き及んだ話だ。彼も詳しいことは知っていない。ましてや語れるほどのこともない。だからそれは、物語の第三章・・・として、当事者本人・・・・・の口から、語られるであろう。


 ゆえに、この最終章で語られるのは、その後の若男の話。すべてを失い、すべてを諦めた彼の、最後の使命。もはや若女に顔を合わせることすらおこがましい。そのように考えていても、やるべきことだけは残っていた。その、ただただ虚無で、得るものなどなにもない敗戦処理を、彼は淡々とこなすしかなかった。


 それが、壮年、リュウ・ヨウユェの、最後の、生きる理由だ。つまるところ、この物語は――その結末は、最初から決まっていたのだ。壮年が――あるいは彼の仲間たちが積み上げてきたのは、物語を終結させるための出来レース。これはその、ネタバレのための、最終章。


 まったくもってつまらない、淡々と、暗澹と、ただ綴られるだけの、感傷だ。


 それは、すべてが終わった瞬間に、始まった。若男が、若女を失い、失意の中にふたりの未来を捨て去った、その直後からの、物語である――。


 ――――――――


 1992年、日本。とある地域。


 当時の若人は、とある山間の村から逃げ出したところであった。その国の、あるいはその世界の、あらゆる人間を滅ぼそうとする、それだけの殺意を抱いた村。そこで、人類を呪い殺そうとする意識の集合として、彼は産み落とされた。

 産まれながらに呪いを背負った彼は、物心つくまで、それに気付かないまま、悠々と成長した。だが、世界の分別がついたころ、彼はその村の異常さにもまた、気付いた。そのうえ、己が生まれに比して、極めて一般的に育った彼は、その呪いを受け入れられなくなっていた。だから、彼は逃げ出したのだ。


「人を殺すのは――でなくとも、人が死ぬことを願うのは、悪いことだよな」


 少年は呟く。


 それはそれとして、いまを生きるすべは、彼になかった。自身の生存に、さして興味はなかった。どちらかといえばこんなもの、死ぬべきだと思いはしたが、まあ、やはり、どちらでもよかった。しかして、生物としての本能というべきか。いや、ただ単純に、苦しいことから逃れるために、彼は、生の道を望んだ。

 空腹は、地獄だ。彼は数日、なにをも口にしないまま放浪したが、それだけでも、もはや生きる気力すら失いかけていた。あるいは自発的に死を求めるように――。


 その飢餓は、思考も、行動も、信念も、鈍らせる。はたして自分は、なんのために逃げ出したのか。どうして知りもしない世界のために、自分は苦しんでいるのか。見苦しく、醜く、死にかけた自分を、まるでいないもののように扱う、この世界を、気遣う必要などどこにある。


 ――殺そう。いや、誰かが死ぬことを、諦めよう。

 自分でなにを下さなくとも、この思いさえ解放すれば、容易く世界は、死に至る――。


「行く当てがないのか、君は――」


 すべてを諦めかけた彼の耳に、その声は、ずっしりと響いた。それは耳から入り、心へ沈み、カチリと、錠前を下ろすような、重い声だった。

 まるで、世界の死を背負った自分よりも、よほどの地獄を見てきた者のような、そんな、声。


生きる当て・・・・・が、ない。俺が生きていたら、誰かが死ぬ。でも、誰かを生かそうとすれば、俺が死ぬ」


 はあ。と、少年の返答に、若男は嘆息した。……いや、ただ疲弊したように、大きく息を吐いたのだ。


「人に、生きる当てなどない。世界は、もとより狂っている」


 あは、はははははははは! 狂っているのは世界じゃない、こいつだ。そう理解できるほどに、若男は高く、笑った。


「俺は、本当に愚かだ。落ちこぼれだ。世界から見放された、地を這うゴミだ」


 若男は、そう言った。死人のような顔のまま、淡々と。もはや感情などなくしたような、機械的な表情で。なにがあったかは知らないが、少年はこのとき、自分の抱えている苦悩など、どれだけ軽いものかと反省した。

 自分より憐れな者を見て、少年は、己が懊悩を振り切った。本当に、なにがあったかは解らないけれど、その様相を見るに、途方もない悲劇があったのだろう。それは、少年にとって空想するしか仕様がなかったけれど、それゆえに、あまりにその悲劇を過大に認識してしまうのだった。


「どうして、正しいことができない。理性的に生きることができない……。俺のやるべきことは決まっている。シンファの願いを継いで、生きることだ。なのにどうして、俺は――すべてを捨てて、いまものうのうと、生きているっ――!?」


 悲痛な声。だが、はたしてその者は、立っていた。くずおれるでもなく、泣きわめくでもなく、ただただ絶望の中で、立っていた。

 少年を見下ろし、その目を合わせ、暗い、狂った表情で、生きていた。その絶望こそを、糧とするように。


 ぐううううぅぅ――。と、タイミングよく、その絶望を、空腹が叩き割った。


「……なにがあったかは解らないけど、おじさん、俺は、腹が減った」


 自分は――自分程度なら、生きていてもいいのかもしれない。そう、少年は思った。だから、そう素直に、彼は空腹を訴えたのだ。いま少し、生きたいと。


 その言葉に、若男は、笑う。小さく、口の中にとどめる程度の声で、笑う。

 そして、言うのだ――。


「おじさんじゃない。俺はまだ、二十四歳だ」


        *


 その後、台湾、台北。


「おかー、リュウ。……って、誰その子?」


 子女が、若男の足元にかがんで、その少年と目を合わせた。


「拾った。しばらくなにも食べていないそうだ。なにか食わせてやってくれ」


「拾ったぁ? なにやってんのよ。それに、子どもを拾ってくるなら――」


 そこまで言って、子女は言葉を噤んだ。『先生マエストロ』も、美男も、才女も、彼のやることを知って、離れた。しかし、子女だけはまだ、若男の行く末を見守ろうと、残っている。

 つまりは、彼のやることについて、最低限の理解を示していた。彼のやったことは、当然と、間違っている。それでも、いつか必ず、その間違いに気付くと信じて――。


「ま、いいや。リュウのお金でおいしいもの食べよっか? ぼく、お名前は?」


竜木はばきそなえです。……けど。えっと、……リュウ?」


 少年は困惑したように、若男へ助け舟を求める。年上の女性にどぎまぎしたというのもある。しかし、それ以上に、自身の特性が彼女に及ぶのを、少年は怖れたのだ。


「大丈夫だ、ソナエ。リオは俺と――いや――」


 ふと、このとき、若男は思い立った。もはや、俺は俺ではない。あのころの――愛する彼女といた俺は、いない。


と同じだ。そのおばさんは、死なない」


「おい、だれがオバタリアンだ、リュウ」


 子女は抗議した。だが、若男は聞く耳を持たない。


「君のおかげで、やるべきことがはっきりした。……だがすまない。それゆえに、いま少し、忙しい。……リオ、ソナエの面倒を見てやってくれ」


「もう……勝手にすれば。あんたはお金だけ出しててよ、メッシーくん」


 いこっか、ソナエくん。そう言って、子女はいまだ後ろ髪を引かれる少年の、手を引いた。




「『異本』を、蒐集する。世界に散らばるそれらを、すべて集める――」


 彼から離れる間際、少年は、若男の呟く声を、聞いた。


「この、狂ってしまった世界を、なかったことにしてやる。まずは――」


 こうして、彼の物語は、再起動した。




「組織が必要だな。人手が、足りない」


 こうして、WBOは、生まれたのだ。



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