幕間(2026-12-2)

流転の音色が重い時を刻む


 2026年、十二月。台湾、台北。

 台北に多くある高層ビル。その内の一棟。その、上階。あるフロア。


「ふもっ!?」


 バリっ! と、驚愕とともに、硬いなにかが割れ落ちた。赤褐色に染められた、白い米菓。すなわち、煎餅である。


「なんだ。なにかと思ったよ。『グリモワール・キャレ』じゃないか」


 納得してみると、まあ、そんなもんだろう。とでも言わんかのように、興味をなくす。だから、優先すべきは崩れ落ちた煎餅の欠片だ。その若人は、ひとつひとつ、床に這いつくばってそれらを拾い、丁寧に自らの口に押し込んでいった。


 そうこうしているうちに、漆黒の立方体からは、ひとりひとり、個性的な面々が現れてくる。全身を暗い服装で覆い隠したパリピ、筋骨隆々に整った顔立ちを乗っけたゴリマッチョ、そして、巨大な斧を担いだロリババア。その面々は、各々違う感情を抱えて帰還を果たしたのであるが、戻ってくるなり、そこに這いつくばる若人を見て、みな一様に同じ表情になった。


「ひっ……!」「くっ……!」「あっ……!」


 とりあえず、三者三様に一歩、後ずさる。そして全員が、ばつの悪そうな顔をした。


「ほっ。ふぁえひー」


 リスのように若人は、頬を膨らませ彼らをねぎらった。が、その言葉に、三人ともなんとも、応えない。だから間が空き、若人の咀嚼が終了する。


「じゃあ、報告を聞くよ。こんなところでもなんだし、『執行官長室』とかで」


 煎餅もあるでよ。と、若人は嬉しそうに、にひひ、と、屈託なく笑った。


        *


 件の部屋に、まず、『特級執行官』三人が入室する。最後に、若人が。それから彼が照明を点け、自身の席にまず、腰を降ろす。


「どしたん? 座れば?」


 若人は、扉のそばに立ったままの三人を見て、首を傾げてそう言った。

 それからややあって、彼らはお互い譲り合うように、若人と向き合う位置のソファへ、腰を降ろした。


「いやね、本当、申し訳ないとは思っているよ。……あ、煎餅あるから、つまんでね」


 背の高い椅子に座り、背の高いデスクへ深々と首を垂れ、若人は低頭に切り出した。ソファの前にある机には、大きな皿に、大量の煎餅が積まれている。だが、三人のうちの誰も、それに手を伸ばしたりはしなかった。


「みんなみたいな優秀な子らにさ、なんか、雑用みたいな任務が入っちゃって。まあ、それも、WBOうちの景気がいいってことでさ、納得してもらえると助かるんだよね」


 バリっ! と、若人は煎餅をひと齧り。むぐむぐと、小さな口を大きく動かして、咀嚼し始めた。

 ゆったり、ゆったり、それを味わい尽くして、ご満悦に堪能してから、続きを紡ぐ。


「それで、『虎天使R』の蒐集について、ガウェイン、報告をお願いできるかな?」


 やはり申し訳なさそうに、煎餅を挟んで両手を擦り合わせ、ウインクをして、その若人はまず、ロリババアを名指しした。


「……『虎天使R』は、……えっと……」


 ロリババアは口籠る。だから隣のゴリマッチョが「ぷっ」と、少し吹き出した。


「ごめんなさい! 蒐集、できなかったの!」


 意を決して、ロリババアは報告した。なにかに怯えるように、ぎゅっと両目を瞑って。


「……ふうん」


 若人は淡白に唸る。ボリボリ、と、ロリババアが口籠っているうちに新たに口に含んだ煎餅を味わうのに忙しい様子で。


「それよりぃ! 現場に稲雷いならいじんくんがいましたよぉ!」


 場が、煎餅の咀嚼音だけに静まったので、ゴリマッチョが横から、そう声を上げた。


「……あそー」


 煎餅は飲み込んだようだが、さして興味もなさそうに、若人は言った。


「ウェイちゃん、ライジンがWBOうちらに忠誠誓ったとか、あたおかなこと言ってたぽよ。うちらにまで斧向けてさー、思い出すとじわるwww」


「……へー」


 若人は、次なる煎餅に手を伸ばした。バリっ! と、その一枚を一口に、頬張る。

 ボリボリボリボリ……。長いときを稼ぐように、冗長に彼は、それを咀嚼し続けた。


 そして、やがて、飲み込む。


「ちょっとあれよ。私、頭悪いから確認させてね。ガウェイン。『虎天使R』は、蒐集できなかった?」


「は、はい! ごめんなさい!」


「うん。で、それは、稲雷塵さんが邪魔をしたってこと?」


「えっと……なんていうか……」


 ロリババアが口籠る。それは、やましい意味があったわけではなく、あれが、妨害だったのか、判断がつきかねたから。


「なんかぁ、ボクが到着したときにはもうぅ、こいつは稲雷くんとなにか、取引を――」


「ランスロット?」


 若人は彼の名を呼ぶや否や、また煎餅をひと齧りして、場を静めた。わずかな一口だ。だから、ほんのわずかな間隙を入れて、また、口を開く。


「ちょっとガウェインの話を聞いていいかな? ごめんね」


 変わらずの平身低頭。で、あるのに、ゴリマッチョは委縮して、その筋肉を強張らせて、悪態のひとつもなくただ、黙り込んだ。


「うーん。まあ、稲雷さんのことはいいや、置いておこう。で、『虎天使R』だよね。ガウェイン。それはいつ蒐集できる? それとも難しい? もし稲雷さんが、直接にでも間接にでも妨害してくるというなら、確かに容易ではないだろうけれど……そんな感じ?」


「いや、稲雷くんは……たぶん、死んじゃったから」


「死んだ? なんで?」


「それはボクが――」


 バキっ! と、今度は、齧るより早く、煎餅が崩れた。だから、ゴリマッチョは黙る。


「わー、煎餅が! ごめん。ちょっとイラついた!」


 若人は言うと、全世界に申し訳なさそうに、床に這いつくばり、落ちた欠片を拾い上げ、口に放り込み始めた。


 上司・・のそんな姿にも、恐怖を感じ、ソファの三人は動けない。声も上がらない。身じろぎすら、呼吸すら、最小限に静まる。


「で、ガウェイン。なんで稲雷さんは死んだの?」


 まだ少し口をもごもごさせながら、再度、問う。


「わ、ワタクシが、足を切り落として、その段階でたぶん、かなり出血多量とかで、憔悴して、いたとは思うんだけど。……その後、ランスロットが、来て、突き刺し、ました」


 やや呼吸も荒く、ロリババアは過呼吸のように絶え絶えに、答えきった。


「そっかぁー」


 能天気に若人は、少し天井を見上げる。デスクに隠れて三人からは見えないが、おそらく両足を浮かせてぶらぶらしながら。

 その間、ロリババアは極度の緊張により、荒い息を繰り返していた。もはや胸を押さえて、前傾に、いまにも倒れそうに。


「ちょちょちょ……ガウェイン!? 顔色悪いよ! 報告とかあとでいいから、ちょっと席外しな?」


 慌てすぎて転げそうになりながら、若人はロリババアに駆け寄り、首を振る彼女を半ば強引に、退出させた。


        *


 おそらくどこぞの部屋までロリババアを送り届けた後、若人は戻り、『執行官長室』はひとりとふたりになった。


「ガウェインって稲雷さんと面識あったっけ? 彼が亡くなったというのが、もしかして堪えてたのかなあ……」


 語尾が小さくすぼんでいくから、ふたりの方はそれが問いなのか判別できず、なにも答えないでいた。すると、ちゃんとした問いが改めて、若人から齎される。


「とりあえず続きはランスロットに聞こうか。まずさ、どうして君は稲雷さんを刺したのかな?」


「彼の存在自体がWBOに不利益になると判断したんですぅ! あいつの『異本』への親和性は、ボクたちから見ても、尋常じゃなかった!」


 その大きな腕を持ち上げ、演説のように大仰に、ゴリマッチョは言った。


「なるほどね。確かに、そういう一面はある。いやあ、勉強になるなあ」


 若人はにこやかに、煎餅をひと齧り。その笑顔も相まって、本当においしそうに頬張っている。


「で、君がそのとき、稲雷さんを殺さなきゃならなかった理由は?」


「はいぃ!? だから、あんな金髪野郎、生きてたって百害あって――」


「一利なし? 私はそうは思わないけれど」


 ぴしゃり。と、若人は彼の言葉を先取り、否定した。


「……一利なし、は、言い過ぎにしてもですねぇ。害の方が大きい。それは、あいつが八歳にして『異本鑑定士』になったときから! ずっと! WBOが認めてきたことでしょうがぁ!」


「うん。だからね。……私の聞き方が悪かったんだね。申し訳ない。……だから、なんで『そのとき』、君は彼を殺さなきゃいけなかったのかな?」


 ゴリマッチョは頬をピクリと震わせ、息を飲む。間が空く。


 だから、若人はまた、煎餅を頬張った。


「まだ伝わっていないのかな? ごめんね。私、口下手だから。ええっと、だからね。WBOが彼を危険視しているというのは、ずっと昔から変わらないんだよ。だけど、完全に敵対する形を、ずっと避けてきたのね? でも今回、君の独断で、彼に敵対し、殺害までしたってことだよね? つまり、そうするだけの理由があったわけだ。彼が異本鑑定士になってから、二十数年? ずっと守り続けてきた彼との関係性を、変えるだけの理由があったとなっちゃ、私もね、面倒だけど、リュウさんに報告しなきゃならないんだよ。手数をかけるけれど、具体的な理由をね、だから、聞いているってわけ。……解るよね?」


「……わ、……」


 そのとき、ゴリマッチョの脳内では、ふたつの選択肢が、生まれては消え、消えては生まれ、どうしようもない袋小路に陥っていた。……という事実に、行き当たることすらできないほどに、堂々巡りを繰り返していた。


 だから、やはりその間を、若人は煎餅の一口で、もたせることとなる。その、わずかな永遠で。


「解ってくれた? それとも、まだ解らないかな?」


「わ、かり、ます……」


「ん。よかった」


 にかっと、若人は歯をむき出して笑った。「それで?」と、続けて、問う。


 が、ゴリマッチョは答えられない。よもや金髪がムカついた、とは、口が裂けても言えないし。パンスネ鼻眼鏡を持ち上げるように、頭を抱えて、冷や汗を拭い続ける。


「ラーンスロットー。大丈夫? 君もどこか、具合が悪いのかな?」


 おやつを待たされている子どものように、若人は彼を急かす。だから、彼の代謝の良い肉体は、次々と、サウナに入っているかのごとく、汗を噴霧し続けた。


「ねえ、ランスロットー? 知ってると思うけれど、稲雷さんは特別なんだよ。いや、故人となったいまでは――いやいや、故人となったいまでも・・・・、現在進行形で特別なんだよ? この意味、解ってる? ねえ? ねえねえねえねえ? 君ほどの男が、解らないはずないよねえ? 君たちとかさ、私とかさ、彼はそんな次元の存在じゃないんだよ? ねえねえ、ねえねえねえねえねえねえねえねえ? ラーンスロットー!? 私の話、聞いてますかー!?」


 近寄る。近付く。頭を抱えるその耳元で、囁く。囁き声が、大声に変わる。


 ゴリマッチョの体からは、汗が、噴き出る。全身から、蒸気が上がる。頭が、沸騰する。そして、意識が、薄れ――。


「ああ、もう。理由がないなら理由がないって、そう言ってくれればいいのにね。本当、ホウ・レン・ソウ。社会人の常識でしょうに」


 ゴリマッチョは意識を失う直前、そんな言葉を聞いた。そんなことは解っている。そう、心でごちる。それでも、正しいことをして正しく死ぬくらいなら、格好悪くあがいて、無様に生き残る方がいい。


 そう、ほんのわずかに救われて、笑んで、ゴリマッチョは倒れた。


        *


 その巨躯を放置して、若人は自席へ戻る。少しだけ息を吐き、笑顔を取り戻す。煎餅を齧り、落ち着く。


「最後になっちゃったけど、モルドレッド。ガウェインとランスロットの話じゃ、君は稲雷さんの死には関与していない様子だったけれど、それは間違いないかな?」


「リアルガチに無関係ンゴ! あいつらテンアゲでオラつき過ぎワロチwww」


「ひとりでも冷静な子がいて助かるよ。それで、君はなにをしていたんだい?」


「ファ!?」


 ふざけているが、その声は、もはや裏返っていた。


「ぴ、PK?」


「ん? PK?」


 幸いになのか、不幸なことになのか、若人はその言葉を知らなかった。


「じゃなくて! えと、とりま、成り行きを見守ってた、的な?」


「ふむ、冷静な判断は必要だね。それで?」


「それで?」


「君たちはどうしてあの場に派遣されたか、覚えているよね?」


「そりゃ、あの、『虎天使R』の、蒐集。ウェイちゃんの、あげぽよな助っ人として……」


「そうだよね? いくら手が余っていたとはいえ、結果として『虎天使R』の蒐集に、『特級執行官』が三人、揃い踏みだったわけだ。それで、なにがどうなって失敗した?」


「それは……ウェイちゃんが空前絶後のゲスい裏切りで、うちらの邪魔を……。ちな、ライジンもウェイちゃんにニコイチしちゃって、うちら人権ないってか……」


「解らないな。……ランスロットはともかく、どうして君が、君までもが、ガウェインに後れを取るんだい? いくら稲雷さんが助力していたとしてもだ。助力といっても、せいぜいが『グリモワール・キャレ』の増強だろう? ガウェインと君は、そもそも本来的に、総合的な実力は伯仲でも、相性としては、この場合、君の方が有利だと、私は愚考するけれど」


 ふむ。と、それでも、不測の事態を、可能性を、まだ考えるように若人は首を傾げ、煎餅を齧った。だから、その時間だけ、まだ、パリピも頭を回せる。

 面倒だったから、あえてなにもしなかった、ということを正当化する、理由を。


「……で?」


 煎餅を飲み込み、若人は再度、問い質す。


「う、ウェイちゃんの裏切りで、メンブレして、あったま今日イチやばたにえん! もうぴえん越えてぱおんしちゃってましたぁ!!」


 そう、やや無理のある言い訳をした。泡を吹いて倒れているゴリマッチョの横で、土下座して。


「ああー、はいはい。なるほどねー」


 ふむ。と、若人はキイ……と、椅子を鳴らし、煎餅を齧る。ボリボリ……、時の流れを遅らせるように緩慢に、音を刻みながら。


「ま、人間だもの。そんなこともあるよね。仕方ない。仕方ないよ、モルドレッド。……だから、顔を上げな?」


 その優しい声に、パリピは恐る恐る、顔を上げる。その先にいたのは、問題なく笑顔の、自分たちの上司。


 すなわち、『執行官長』、コードネーム『アーサー』。

 WBO最高責任者、リュウ・ヨウユェから、最大限の信頼を受ける、ふたりの内の一人。実質の、右腕。その人だった。


 ちなみに左腕とも呼べる、もう片腕の人物こそが、『世界樹』の『司書長』、ゾーイ・クレマンティーヌである。


「まあ、次はないと思っておいてくれれば、それでいい」


 煎餅好きな、生粋の日本人・・・。彼は、その国の人間にしては珍しく、高い鼻や深い彫で顔に影を作り、満面の笑みで、パリピに腕を、差し出した。


        *


 ひと段落したところを狙ってか、ふと、独特なメロディで機械音が、鳴った。


「はい」


 驚くほどの機敏な動きで、若人はそれに応答する。かかってくるのが解っていたかのような速度で、しかしながら、察知していたとは思えないほどに慌てた動きで。


「はい。はい。……はい。……そうなんですか」


 相手の言葉数が多いのだろうか? 若人は特段に口を挟まず、ただ、相槌を繰り返していた。


「じゃあ……あ、はい。解りました。では――」


 言うはずの言葉を遮られたように、若人は片眉を上げ、唐突に、言葉を止めた。そのまま、若人はスマートフォンを、耳から離す。


「……『虎天使R』は、別の者に引き継ぐそうだよ」


「へ?」


 電話口に語るのではなく、パリピへ向けて、若人は言った。それに頓狂な声を上げ、パリピは少しだけ、青ざめる。


「ああ、そうじゃなくてね。……君たちにはもっと、君たちらしい仕事ができた、って感じかな。まあ、こういうのの方が、君たちには向いていると思うよ、私もね」


 そう言って、若人はその内容を説明する。なんとも明瞭で、確かにパリピたちに向いている、仕事について。


「……りょ」


 だから、パリピは笑って、了解する。


 はたして、『戦争』は、最終局面へ、動き出した。


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