稲雷塵の物語
三人を飲み込み、やがて、その漆黒の立方体は消えた。
「『オヤジ』!」
それと同時に、白髪交じりの丁年がどこからともなく現れ、若者に駆け寄る。わずかな距離を疾走し、その速度を落とさないまま膝を地面につき、その摩擦で停止する。おそらくその勢いでジーンズの内側の膝は大きく擦り切れているが、それをおくびにも出さずにまず、若者の容体を確認した。
胸に空いたみっつの穴。三叉戟での一突き。その内のひとつは、当然狙ったのだろう、的確に心臓を貫いている。もとより体の弱い若者だ。それ以前の、片足の切断だけでも血を流し過ぎ、憔悴していたというのに。
「『おと……父上』!」
遅れて、麗人も駆けて来た。虹色に煌めく鳥人を伴い。その腕からは件の落書きも飛び降り、風に飛ばされそうになりながらも若者の元へ駆け寄った。
とはいえ、部外者――部外紙だ。三つ子たちほどに彼に近寄ったりはしない。そのあたりの配慮も心得ている落書きだということらしい。
「シュウ、カナタ。……てめえら、どこ行ってた?」
ドスの利いた声で、自宅警備員が問う。ぼさぼさの髪に表情を隠して。
「どこって……」
「あたしら三人なら、あんなやつら、簡単にやれただろうが!」
言葉を重ねるごとににじり寄り、自宅警備員は麗人の胸ぐらを掴み、叫んだ。その勢いで覗いた顔には、怒りと、それを越えるほどの哀切が、もっとも顕著な形で刻まれている。
「……そりゃ解んねえッスよ。あいつら全員、マトモじゃねえ。ハルカがうるさいから、一回は移動に手を貸したッスけど」
そう言って、丁年はひとつ、嘆息した。だから、矛先がそちらへ向く。
「だから――勝てそうもねえから隠れてたってのか!? ジンがこんな目にあっても!? てめえらなにしにここに来たんだよ!!」
「そりゃハルカが呼んだからッスよね」
「ああん!?」
その素っ気ない態度に、自宅警備員は丁年へ、鋭く尖らせたままの右腕を突き付けた。
だから、すかさず麗人が、彼女の頬を打つ。
「ハルカ! 解らないの!?」
そのあまりに弱々しい一撃は、自宅警備員の硬質化した肌には、幾分のダメージすら与えない。それでも、誰よりも感受性豊かに、心を表出したその表情は、確かに彼女の内心を打った。
「『お父上』は、身を挺して私たちを守ってくれたの! 私たちがWBOの敵だと認定されないように! だから私たちは姿を見せるわけにはいかなかった! どんなことが起きても! たとえ……『お父上』が、殺されたって!」
「…………」
自宅警備員は言葉をためらわせた。その思想は、行動は、間違っている。そう思う。でも、
「起きたことに怒っても仕方ないッスよ。問題は、起きたことにどう対処するかッス」
どうやら一通りの検分を済ませ、ようやく丁年は若者からいったん、目を離した。その視線は、自分の姉たちへ一瞥ずつ、注がれる。
「こりゃ、病院ってレベルの傷じゃないッスね。……可能性があるとしたら、常識を超える力――すなわち『異本』だけッス」
言って、丁年は自身の持つ、銀色の装丁、その『異本』を輝かせた。
*
そこでようやく、麗人も若者のそばへ腰を降ろし、その見るだけにも痛々しい患部を確認した。
「ヤキトリ! お願い!」
『承知した。お嬢』
即座に鳥人へ指示し、彼もそれに応える。
鳥人はボリュームのある腕を少しはためかせ、虹の羽を降らせる。それは若者の体へ収束し、それと同じ色に彼の体を、ぼんやりと発光させた。
「カナタ。俺の腕も頼むッス。
丁年の言葉通りに、麗人は鳥人へ指示。その通りに丁年の腕にも、その虹色の光は伝搬した。
そしてそのままその腕を、空に浮かせた大きめの鏡に突っ込む。どうやらその先は、若者の体内に通じているらしい。
「ハルカ。いまの優先順位、解るよね?」
麗人は少し歯噛みして、若者の手を握る。そうだ、解っていた。鳥人を呼び出せるとはいえ、彼女自身には、できることなど他に、ないということを。
「く、そ、がああああぁぁ!!」
気持ちを発散させ、落ち着ける。そのために彼女は叫び、その尖った右腕を、力任せに地面へ叩き付けた。その穂先が、少し、欠け落ちる。
その欠片を拾い上げ、自身の、硬質化した腕に擦り付ける。いや、細かく尖らせた腕で、細かく刻む。摩り下ろす。
「
その粉末を、若者の口元へ寄せた。
「い、やだ」
若者は断った。意固地に。
だから自宅警備員のどっかのなにかが、ぶちりと切れる。
「てめえ……この期に及んで……!!」
「ハルカ! いい! 直接内側に入れるッス!」
無理矢理に飲ませようと詰め寄る彼女を制止し、丁年がそれを、鏡に流し込んだ。
*
夢のようなまどろみの中、若者は、視界に映る光景を、少し笑んだ瞳で受容していた。
三者三様に、自分を慮る子どもたち。ぼくの、大切な『家族』――。
――――――――
「勝手な
気付けば、そこは真っ白に塗り潰された部屋。丁年の、鏡の世界とも違う。白くて白くて白くて白くて、果て無く真っ白な、世界。
そこで、そこにいる何者か――その、なにもない空間へ腰を預け座る何者かへ、若者は言った。
「やあ、
「初めましてだと? ついさっきも会ったじゃないか」
「そうだったかな?」
すっとぼける相手に、若者は肩をすくめて応対する。どうやら、切り落とされた足も復活している。胸に空いた穴も。だから、そこが現実じゃないと――少なくとも『現実』と呼ばれるべき場所ではないと、理解する。
『ムオネルナ異本』。その力で一度、消えた。そこにいた者。
きっと
「どうだった? 君の世界は?」
その者は、その、なにもない空間から立ち上がった。
「べつに、普通だよ」
逆に、若者は腰を降ろす。その場所には、直前に確認したところではなにもなかったはずなのに、なぜだかほどよい高さの安楽椅子のようなものが感じられた。その形のままに、若者は身を預ける。
「そうか。重畳重畳」
それだけ言って、張り付けたような笑みで、その者は手持無沙汰にその辺をうろうろした。なにかを言い淀むような、なにかを待つような。
「……まあ、ほら。普通ってのは意外と素敵なことだと思うんだ。うん。五体満足に健康で過ごせたというかさ――」
「足は一本切られたけれどね。そもそも生涯、不健康だったし」
「まあそうか。そうだよね。あはは……」
はあ。と、その者は嘆息した。慣れぬ対人関係に気をすり減らしているような、そんな面持ちだった。
「あー、えっと、他に、特になにもないなら、君には次の舞台を用意してあるんだけど……」
その者はそう言うと、片手でどこか、真っ白い空間の先を示した。そこには、どこにもムラのない完全な空白に、ただひとつの歪みが開いていた。どこか、扉のように。
「構わないけれど、できれば、ひとつの頼みと、ひとつの質問をさせてくれ」
「どうぞ」
若者の言葉に、その者は満足気に笑んで、そう促した。若者のその言葉を待っていたと言わんばかりに。
「先に質問だ。ここに以前、
「ああ、来たね」
「あいつは、どうした? これからぼくが向かうように、その先へ進んだのかい?」
若者は、なにもない安楽椅子に身を沈めながら、気だるそうに片腕で、その空間の歪みを指した。
「いや、彼は戻ったよ。というより、
「そうか……」
若者は上半身を持ち上げる。そうして、「なら、嘘にはならずに済んだな」。と、小さく呟いた。
「解った。ありがとう。もう、いい」
言うと、若者は、見えない安楽椅子から立ち上がり、そそくさと歪みへ向けて歩き出した。特段のためらいもなく。足早に。
「ちょちょちょ、ちょっと待って。それで、頼みってのは?」
「あ、そうだった」
本気で忘れていたかのように唐突に立ち止まり、若者は改めて、その者へ向き直る。
「可能ならで構わないけれど、できれば、ぼくを――」
彼は、何事かをその者へ、告げた。
――――――――
「ハルカ! もっとメスを! カナタはこっち押さえててッス!」
「うるせえ! わあってるよ!」
「シュウ! 出血が止まらない!」
「くそっ! ヤキトリでの止血も限界があるッスか!」
「カナタ! あたしが代わる! 『異本』の増幅に集中しろ!」
「解った!」
けたたましい怒号の応酬に、だからだろう、対照的に、若者はなぜだか、心穏やかに目を覚ました。
「カ……ナタ」
「『お父上』!」
その喧噪の中、かすかに吹き返す若者の言葉に、麗人は素早く反応した。
「ヤキトリの、治癒は、首から、下だけで――」
「……う、ん」
確かに、首から上にダメージはない。特に頭部を癒す必要はない、が、少しだけ躊躇して、それでも、麗人はなにかを悟って、父親の言う通りにした。
「ハルカ……」
「……ジン!」
自宅警備員を呼ぶ。彼女は、応える。
「カナタ……」
「はい……!」
麗人を呼ぶ。彼女は、応える。
「シュウ……」
「ああ……!」
丁年を呼ぶ。彼は、応える。
「きみたちに言い遺す言葉は、特にない」
若者は、確かにそう言った。
「は?」「え?」「……」
その言葉に、三つ子は、三者三様に、首を捻る。
「きみたちに伝えるべき言葉は、とうの昔に、すべて終えてある。だから、みっつ、言伝を頼めるか」
力強く、若者は言った。有無をも言わせない、語調で。疑問形を用いずに。
まず、自宅警備員を見て、語る。
「ひとつ。ノラへ。『きみはきみだ。他の、なんらでもない』、と」
もはや三つ子たちと同じ、自身の子ども同然の、少女へ。
自宅警備員は了解して、深く、二度、頷いた。
次いで、麗人を見て、語る。
「ふたつ。ヤフユへ。『きみは、ぼくの代わりにはなれない』、と」
三つ子以前からの、自身の息子。あるいは、対等な関係である、紳士へ。
麗人は少し躊躇うも、しっかと、大きく頷き、了解を示した。
最後に、丁年を見て、語る。
「みっつ。……ハクへ。『きみは――』」
言いかけて、若者は、一度、大きく肩を落とした。穴の空いた肺で、呼吸するのが困難であるかのように。死んだように、呼吸を、止めた。
「『オヤジ』!」「『お父上』!」「ジン!」
笑む。彼を呼ぶ声に、彼は、答える代わりに、笑みで応えた。
「『きみは、……間違ってない。自分の感情に、迷うな』」
あと、そうだな。
若者は笑って、そう、告げた。
「……俺だけやけに、伝えることが多いッスね」
そう言って、丁年は、手を、止める。
その代わりに動いたのは、三人の、頬を伝う、液体。ひどく力強く、あまりに美しい、最後の、最期への、感情。
「大丈夫だ」
若者は、最期に、言った。
「
若者のいなくなった世界で、まだ、あと少し。
――――――――
「『死ぬ前に、遺言を伝えたい』? うん。いいよ」
「いいのか。思った以上にゆるいな」
「いいんだよ。そんなんで。……だが、君がそういうことをしようとするってことの方が、我としては驚きなんだけどね」
「そうかい?」
「だって、稲雷塵っていえば、家族にもずっと淡白で、ひとりよがりで、……うん。つまり、誰かのためになにかを遺そうとする若者ではなかったような。そんな気がしていたからね」
「ふむ。さすがだ、よく解っている。そうだよ、そういうことだ。……ぼくはね、誰かのためになにかをしようなんて、そんな人間じゃあない。これは、徹頭徹尾、ぼくのための遺言だ」
「というと?」
「ぼくはね、格好いいんだ」
「……うん」
「きみが間を挟むと嘘みたいになるだろ、やめてくれ。……ともあれ、ぼくは、格好よく生きてきた。そうなりたい。そうありたいと、生きてきた」
「ああ、確かに」
「だけれど、ぼくにはなにもなかった。力もない、知恵もない。体も虚弱なら、運も、めっぽう悪い」
「あー、はいはい」
「だからさ、適当なことを適当に
「……つまり、なんだ。……君は、自分が格好よく見られたいがために、これから息を吹き返して、適当な遺言を吹いてくる、ってこと? それを『家族』が、どのように受け取り、どう大切に胸に刻むかも、まったく無視して?」
「まったくの無視はしないさ。だが、大切なのはぼくだ。ぼくは、ぼく以外の誰かを大切に思えるけれど、しかし、一番大切なのはぼく自身だ。それだけは譲れない。……ぼくはこれから、一世一代の大ぼらを吹いてくるけれど、しかし、それはきっと、彼らの、彼女らの、なんかの糧くらいにはなるだろうさ」
「そうか……」
その者は笑い、間を空けた。
これが、稲雷塵の物語、か。と、そう、確信して。
「それで?」
若者は、最後に、なにごとかを問うた。
「はい?」
その者は意図を読み取れず、聞き返す。
いや、正確には、
「一体全体、きみは誰なんだい?」
まあ、おおよそ予想はできるけれどね。
若者は解ったような解らないような、適当なことを適当に、そう、吹いた。
「なあに。きみたちにとっては誰でもない、なんでもない、どうでもいい存在だよ、我は」
語り手、さ。ただのね。
どこか得意げに、その者はそう、名乗った。
そこで、若者の意識は回帰する。あと、ほんの少しだけ。
――――――――
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