モスクワ編

大きな世界の小さな幸せ


 2027年、一月。ロシア連邦、モスクワ。

 世界最大の国、ロシア連邦。その首都、モスクワ。


 世界遺産にも登録される『クレムリン』から放射状に伸びるメインストリート、また、それを繋ぐ同心円状の道路が広がる街並み。ちなみに『クレムリン』とはそもそも『城塞』を示す言葉であり、ロシア各地に存在する。が、基本的に『クレムリン』といえば、この、モスクワのクレムリンのことである。

 この、クレムリン。世界遺産に登録されるほどの歴史的に価値のある建築物であり、モスクワ――ひいてはロシア連邦の象徴のひとつとも言える。が、かように観光名所としての面が大きくクローズアップされるが、ロシア連邦の大統領府や大統領官邸なども設置されているため、ロシア政府の中枢としての側面も持っている。


 さて、一日を通して氷点下から抜け出すことのない、真冬のモスクワ。その中心、クレムリンの眼前目下、こちらも世界遺産とされる観光名所、『赤の広場』。次なる物語は、ここから始まる。


「わあ、素敵……。ほら、ハク! あっちもこっちも、ぜんぶキラキラしてる!」


 雪が積もり白い地面に、カラフルな建造物。そして、年末年始を祝うイルミネーション。どこを見てもきらびやかに装飾された街並みに、幼メイドははしゃいだ。

 最高級のロシアンセーブルのコートも、そんな無邪気な幼メイドが着ると、ただの防寒着に見えてしまう。同じ素材で織られたロシア帽ウシャンカから漏れるスカイブルーの髪は、絹糸のように細く、美しく、街のイルミネーションを受けてキラキラ輝いている。


「ちょっとラグナ! ご主人様を置いて先に行くとは、なにごとですか!」


 メイドが叫ぶ。クラシカルなロング丈のメイド服は変わらず。しかし、この極寒に、なぜだか胸元が大きく開いているデザインに変わっていた。だが、わざわざそんな服を選んでいるにもかかわらず、上からは防寒用にケープを纏っている。

 そして、もっとも変わったのが、髪型。以前までは常にメイドらしいマーガレットに編んだ髪型をしていたが、ここ最近はずっと、結いもせず下ろしっぱなしだ。それでももちろん、綺麗に毛先は切り揃えられている。腰を越えるほどに長く伸ばしているのに、ケアが行き届いているのだろう、その黒髪は極上の質をキープしていた。


「むー……」


 そんなメイドを、幼メイドはじとりと見る。もはやメイドというわけでもないが、先輩の言葉に素直に従い、メイドと主人の元へ歩み寄りながら。


「なんですか?」


 だから、メイドも眉間に皺を寄せて、問うた。


「アルゴ姉様きらい」


「なぜです!?」


 メイド本人は本気で気付いていないが、彼女が幼メイドにジト目で見られたのは、彼女が、隣に立つ主人の腕に、自らの腕を絡め、身を寄せているからだった。


        *


 そんな彼女の主人である男は、普段通りのスーツ姿に茶色いぼろぼろのコートを大事に纏っている。やや影が落ちた双眸を隠すようにボルサリーノを深くかぶり、黒いグローブをはめていた。


「いいよ、メイ。少しくらい騒がしい方が、気も紛れる。あいつ・・・との旅は、いつもそうだったからな」


 それに、ラグナはもう、メイドってわけでもねえし。ぼそりと男は付け足した。ゆえに今後は、幼メイドと呼ぶより、単に幼女と呼ぶべきであろう。

 その幼女は、男の言葉ににんまりと、影ひとつなく、むしろ影を消し去るほどに明るく笑い、メイドとは逆方向の男の手を握った。


「ハク、すき」


 メイドのように腕をからめたりはしないが、両手で男の手をぎゅっと握り、軽く頬を寄せる。


 ちなみに、メイドの方は、男の言葉を受け、はたと気付く。少女がいないいま、彼女のように振る舞う幼女は、男の心の安寧に一役買っているのだと。少しくらいお転婆で、世話の焼ける方が、男も適度に忙しなく、暗い事実から目を逸らせるのではないかと。


「……よし! ラグナ! 思う存分はしゃぎなさい! ほら早く!」


 なにかに納得し、メイドは反対側の幼女に指示する。そんなわけの解らない発言に、幼女はきょとんとし、次いで、「ワケワカンネ」、と、苦い笑いを返した。


        *


 彼らが、新年早々からこの国、この街を訪れたのには、もちろん理由がある。氷牢に封印された少女を救うための、理由が。


 数々の情報から、彼女を閉じ込めた氷、災害シリーズの一冊『凝葬ぎょうそう』による封印を解くには、同じ『異本』によるものしかないと判断された。つまり、それを持ち、扱う狂人、ネロ・ベオリオント・カッツェンタを探し出し、解除をさせるしかない。


 いや、彼本人に扱わせる必要性は、厳密には、ない。せめてその一冊、『凝葬』を奪い、それを誰かが扱えば、おそらく解除は可能だろう、と思われる。『異本』を扱えるかどうかは、その者の『親和性』にかかわらず、多少の『縁』や『運』が必要とはいえ、少なくとも紳士が受け継いだ『箱庭百貨店』があるのだから、最低限、扱える保証はあるのである。とはいえ、狂人は件の『異本』を輝かせていた。つまるところが、『適応者』として『凝葬』を扱える。とすれば、『百貨店』による使用では力が足りないかもしれない。


 だから、奪って逃げる、というだけでは、可能性を狭めてしまう。最悪の場合そうするしかないが、今回は、できうる限り、狂人を叩きのめし、解除をさせるのが目的となる。

 そのための準備を、この数週間、行ってきた。男の人脈を、財産を、いかんなく発揮し、情報を、戦力を、手法を用意した。いまでこそ男と、幼女とメイドしかいないが、後に助っ人が現れる手はずである。……いや、いまの状況でも正確には、三人しかいない・・・・・・・というわけでも・・・・・・・ないのだが・・・・・


 ともあれ、首尾は上々。かの狂人を打倒しうるかどうかは、実際にその者を目の当たりにした彼らには、不可能とも思われたがそれでも、なんとかなるかもしれない、程度には準備を完了している。そして、年をまたいだこの年、この月に、彼がこの地を訪れるという情報に従い、彼らは現在、ここにいるのである。


        *


 赤の広場からトゥベルスカヤ通りを約一キロ北上。有名なレストランがあるということでメイドに連れ立ち、彼らは遅めの昼食へ赴いた。重厚な扉を開け、にこやかなスタッフに予約の旨を伝えると、二階に誘われた。やや薄暗い店内を二階へ進むと、そこは、図書館を模したバロック様式のインテリア。昼時をやや外しているものの、そこそこの客入りで、静かな喧噪が、そのレストランの照明のように柔らかく空間を満たしていた。


「いかがですか?」


 男の眼前に座るなり、どこか楽しそうににこにこと笑い、メイドが問うた。ケープを脱ぎ、あらわになった胸元を強調するように、行儀悪く両肘をテーブルに預けて、前屈みに。

 その問いに、男は少し首を捻る。


「なにが?」


 瞬間の思案では答えを得られず、疑問のまま返した。

 まだ、食事をしてもいなければ、メニューすら見ていない。この状況でレストランに対してなにを語ればいいというのか? 本当に解らなかったが、疑問を返したあと、男は遅ればせになにかを悟った。だから、「ああ……」、と、間を繋ぐ。


「おまえ、俺を本好きだと思ってたのか?」


 改めて周囲を軽く見渡し、男は言った。その珍しい、図書館風の内装を。とはいえ出てきた答えは結局、疑問だったのだけれど。

 男の返答に、メイドはさきほどまでのにこにこ顔を瞬時に消し、「いえ……」と、前屈みだった姿勢も正した。


「ご不快にさせましたなら、申し訳ありません」


 と、深々と首を垂れる。だから、男はやや取り乱し、少し椅子の足が床と擦れた。先刻の自分の言葉が、どこか冷たかったことを反省して。


「悪い。変な意味じゃねえんだ」


「いえ、ハク様のご嗜好を察せ切れず、メイド失格です」


「察し切られても怖いけどな、俺は」


「いいえ!」


 メイドは両拳をテーブルに叩き付け――そうだったところを、なんとか抑えて静かに降ろし、小さく声を上げた。他の客たちが少し彼らを訝しむが、またすぐ、自分たちの会話に戻っていく。


「ハク様のことはなんでも解らねばなりません。むしろ知りたい、解りたいのです。どのようなレストランで、なにをお召し上がりになりたいのか。どのようなホテルにお泊りになりたいのか。ご入浴はいつから? ご就寝になられるのはいつごろでしょう? ああ、わたくしはバスタオルを持ち、ハク様の浴後を待ち――いいえ! やはりお背中をお流しすべきでは!? 着衣をお手伝いし、ご就寝前にはマッサージをさせていただき、お望みなら添い寝致して……!?」


「……俺はどっから突っ込めばいいんだ?」


 身悶えながら徐々にヒートアップしていくメイドに、男は頭を押さえてぼやく。いいかげん、周囲の目が痛くなった頃合いだ。すると、メイドは自我を取り戻したように男を直視し、暖かな照明に照らされた頬を真っ赤に染め上げる。


「ど、どこからでも、お好きなように……」


 なにかを勘違いしたのだろう。メイドはやや俯き、上目に男を見た。

 だから、男は息を吸う。


「そうじゃねえ!!」


 まさしく正しく、全身全霊、全精力を持って思い切りに男は、突っ込んだ。

 その場の全員が、苦々しい目で彼らを、見る。



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