Revival
暁のエディンバラ。十二月の寒風に包まれながらも、柔らかな朝日に目を細めれば、うちから湧いてくる熱に温もりを感じる。
エディンバラ城。早朝ゆえにいまだ解放されておらず、男たち以外、誰もいない。小高い丘の上にあるその場所から、ほんのわずかな安息をと、どこもかしこもファンタジーなその街を展望する。
まるで、夢の中のように非現実的な、街を。
男は、ボルサリーノを押さえて、正面を見た。太陽が、街を少しずつ浮き彫りに照らす。ようやくそれは、男の目線ほどの高さになってきた。だから、目を合わせ、目を細める。
成し遂げてみると、それこそまるで、夢のようだった。酒の勢いも相まって、それは十全に達成できそうな思いで乗り込んではきたが、しかし、冷静になって思い起こせばやはり、無謀に違いなかっただろう。結果がよかったからすべてよしともできるが、そうでなければ後悔に身を焦がすところだ。あまりに無鉄砲すぎる。自重しなければ、と、自戒する。今後はこのようなことがないように。
俺もいいおっさんなのだから。と、男は思った。せっかくと複数、それもかなり貴重なものをも含めて手に入れたところではあるが、本当に――。
本当に、『異本』蒐集などやめてしまおうか。そう、思う。『家族』も増えた。大切な人が増えた。それはつまり、きっと自分も――自分を大切に思ってくれる人も増えた、ということ。彼女らを不幸にするわけにはいかない。それにもう、『異本』蒐集を理由にしなくたって、世界を巡る目的は、できた。
幼メイドに、世界を見せてやりたい。この、無慈悲に乱雑で、理不尽にまみれた、それでいて、途方もなく美しく、幸福に満ち溢れた、優しい世界を。恐怖も、痛みも、絶望も、いくらでもある。残念ながらまだまだ、胸を張って素晴らしいと、そう評価するには及ばない。それでも、見られるところもある。少しくらいなら、笑い、喜び、楽しく駆け回って、人間ほどの短い命なら、幸福に人生を謳歌できるくらいの懐の広さ程度なら、この世界にも、きっとあるだろう。
そう、思う。あの美しい太陽と、青空。それに照らされたエディンバラの街並み。そこにちらほら見え始めた人々を見て、男は、そう、思った。
そのときだった。
*
人影が、見えた。太陽を背にして、男たちの方へ歩いてくる。コートのフードをかぶり、また逆光で、その姿は隠されていた。だが、現在エディンバラ城敷地内は一般開放前の時間である。男は先を走る幼メイドへ、小さくではあるが十分に聞こえるくらいの叫びで、注意を呼びかけた。他の家族へも――それは、即時撤退を意図して。
「あー、ああぁ……」
フードを纏ったその男は、男性らしい低い声で、唸る。それは個人的というにはいささか、自己顕示欲に溢れた声量だった。
「知ってる顔がちらほらいンなぁ……。『神』への前哨戦にゃあ、物足りねえが――」
言葉を理解する前に、悪寒が走った。男へ。そんな
「ラグナ!」
男は離れた幼メイドを、即座に呼び戻す。
「ハクっ!」
少女はそんな、殺気から目を離す愚かな男の襟を掴み、叫んだ。
その襟を後ろへ引き退ける。その力を推進力に、前方へ、飛ぶ!
『えせ拳法 〝箱庭〟』より、『
それでも――挙動から、仕草から、わずかに見えたその敵の、体についた傷や匂いから、攻撃方法を理解していたつもりでも、それでも――!!
現実にその
歯を食いしばる。腕に力を込める。身を捻り、皮膚呼吸の風をさらに強化。硬質化して、耐火性も備えた皮膚なら、瞬間の炎熱には耐えられる。
「……何者っ!?」
「ああン? ンだよ。思ったよりは、やるじゃぁねえか!」
予定通りに炎球は越えた。後ろは振り返らない。消しきれなかった――そんな余裕など微塵もなかったが、メイドや丁年がいるから、なんとかなっている。そう、少女は信じるしかない。
異常だ。この殺気は、異常だ! ともすればあの、『神』ほどにも存在感・威圧感を備えたムウをも越える、異常なほどの殺気!
「ハク……! 逃げて! みんなを守れる自信が、ないっ!」
振り返る。どころか、声量を適切にする余裕すらなかった。だが、めいっぱい叫んだ。男はそれでも迷うだろうが、メイドがいる。きっと、少し逡巡しても、逃げてくれる。
いまはそれを信じるしかない。目の前の狂人から、目を――気持ちを離す余裕はない。
炎球を通り抜けたときの着火が、水色のメイド服に残っている。それを気にする余裕はないが、どちらにしたところで動かなければならない。ゆえに、少女は身を翻し、点いた炎を払うように、回転を加えた回し蹴りで、攻撃を仕掛けた。
「……なンか、火力が上がらねえなあ」
そんな渾身の蹴りを、狂人は片腕で受けた。その手に握るは、紅蓮色の装丁をした、禍々しい一冊。『異本』、『
「鎮静……干渉……ちげえなあ……。こりゃ、因果律操作か……」
ぶつぶつ呟く。そして答えに辿り着いたのか、狂人は、「げひゃひゃひゃ! なるほどねぇ!」などと、勝手に笑った。
殺すしかない。少女は確信した。男や、家族の前で、とか、自身の倫理観とか、法とか、今後世界を渡るにあたって不利益になるだろうとか。そんな、これまでもずっと葛藤してきたすべてをすっ飛ばして、『殺すしかない!』、と、理解した。
「うわああああぁぁぁぁ――――!!」
制御を超えた、『シェヘラザードの遺言』を用いた最大級の、全身全霊をもって殴りかかる。骨など、筋肉など、その一撃を防ぐには脆すぎる。分厚い胸筋から肋骨を砕き、心臓を貫く。背筋をまで、もろともふっ飛ばし、確実に絶命に至らしめる。躱すだけの隙もない。確実に、殺す!
少女は、そう理解して、懺悔のような、怯える声を上げた。
「オイオイ……そりゃ殺気だろうがよ、お嬢ちゃん」
折れたはずのものとは逆の手を持ち上げ、その狂人は呆れたように、呟いた。
「時をも
その手に握る、青紫の『異本』を煌めかせ、少女の叫びを、止める。
それは、その瞬間を――決死に必死に、大罪に向き合う少女の苦悩と嘆きと、燃え上がらんまでの闘志を纏めて、氷の檻に、閉じ込めた。
*
「ノ……」
その一瞬を認識して、男は、呆けたように口を開く。
「ノラああああぁぁぁぁ――――!!」
その激情に任せた初動を、メイドが羽交い絞めに止めた。
「
言葉を投げるも、男の耳に――頭に、それは、届いていなかったのだろう。暴れて前に進もうとする肉体は、微塵も力を落とさなかった。
「ああ……やあっぱ死なねえンだな。そう
「ごちゃごちゃ言ってねえでとっととノラを離せっ! てめえぶっ殺すぞ!」
はあ……。男の言葉に狂人は、頭を抱えて嘆息した。陽も、また少し登っている。持ち上げて顕わになる彼の腕に、その陽は射し、数えきれないほどの火傷や、所狭しと刻まれた創傷を、照らし出した。
そして、コート――というより、ただの灰色の布きれの、フードのようにかぶっていたそれを、脱ぐ。
「チンピラがあ……覚悟もねえのに『殺す』とか言ってンじゃねえ――」
そう言って、あまりにやつれて、目下にどす黒い隈を携えた、青白い顔で。それでも血走った――血走りすぎて白目が真っ赤に染まった、漆黒の瞳を限界以上に見開いて、
「『殺すぞ』」
その狂人は、静かに言った。
男の動きが、止まる。仕掛けようと隙を見ていた幼メイドも、男を絞めていたメイドも、丁年も淑女も、その場の全員が、立っているのがやっとで、あるいは幾人かは地に腰を降ろし、あるいは意識を失い、失禁までする者も……。
ともあれ、狂人以外のすべてが、その抵抗を止めた。
「ああ……」
そう嗚咽を漏らして、狂人は、布きれをまた頭にかぶる。その殺気を、少しは抑え込むために。
「こうじゃあねえな。そうじゃあ、ねえンだよ……」
ぶつくさ呟く。そして、彼はまた、歩を進めた。
動いたら、殺される。そう、その場の全員が理解した。はっきりと、理解した。自分たちは邪魔なところにいただけだ。狂人の目に、自分たちは映っていない。運が悪かった。タイミングが、悪かった――!
男たちの合間を、ぶつぶつ言いながら通り抜け、その後ろ、エディンバラ城の、地下施設への階段へ。狂人の目的は、EBNA?
「ま――」
死ぬ。殺される。そう、理解していた。それでも、男はがたがたと震える口で、必死に声を上げる。
「待てよ――!」
「ああン――?」
彼が言葉に振り向く瞬間、その体はすでに、空に浮いていた。
*
「あっはああああぁぁ!! 来た来た来た来た! げひゃひゃひゃひゃ!!」
空中ですでに叫び、それでもその身を軽く翻して、ぐらぐらといまにも倒れそうでありながらも危なげなく、狂人は、少女を閉じ込めた氷の檻のそばに、着地した。
「詫びる言葉が見つからない。
灰色の肌、灰色の髪。黒のタキシードに身を包んだ、長身の――『神』。
EBNAの最終兵器。『神』ほどの肉体と精神力、地上の全域を知る全知の『神』。ムウの、登場である。
「灰燼に染まれ! 『噴炎』っ!!」
地獄のような光景。空から――青空を埋め尽くすような、数多の炎球が降り注ぐ。
「下がれ。あの氷は融かせない。また、あの炎は消えることなく、触れたものをみな、燃やし尽くす」
男へ言い、『彼』は、その地獄の中、ゆるりと前進する。
「恩人への――」
語りながら『彼』は、地面に腕を突き刺し――
「ごちゃごちゃくっちゃべってんじゃねえええぇよおおぉ!!」
その瞬間を、狙われた。降り注ぐ炎球だけにとどまらない。自ら瞬間に距離を詰め、身を屈めた『彼』へ、蹴りを向ける。
「恩義に報いる」
だが、『彼』は微塵も怯まず、地中から、永劫にも伸びていくような灰色の『根』を引き出した。それは、周囲の地面を砕き、掲げて振り回される。『根』――いや、『菌糸』。それらでもって『彼』は、上空の炎球をすべて、薙ぎ払った。
*
世界でもっとも巨大な生物をご存じだろうか? 現代の人間がぱっと思い付くあたりであれば、アフリカゾウ? あるいはシロナガスクジラ? 仮にこの哺乳類最大のシロナガスクジラの、確認されている最大体長を調べると、『33.6メートル』と表示される。
では、時代を遡り『恐竜』。聞くだに巨大である彼らの中で、もっとも大きいとされている種『アルゼンチノサウルス』の体長ならいかがだろうか? これも現代の利器により調べたところ、推定される全長は『45メートル』ほどだという。
あるいは、まったくの空想の生物も視野に入れてみるとすれば、ドラゴンや巨人なども思い至るが、やはり巨大生物と言えば海に生息するのが一般的だろうか? と、仮定して、例えば、クラーケン。こちらは伝承により大きくサイズは変わるだろうが、ある資料に目を通すと、『2.5キロメートル』などという規格外な体長に目を奪われる。つまるところが、『2500メートル』。恐竜など虫けらに見えるほどのサイズ感だ。
しかし――しかしだ。そんな空想をも跳ね除けて、世界最大の生物は実際に、この世界に、存在している。
それが、『オニナラタケ』というキノコ。その地表に現れる姿は、ちょっと大きいキノコ、程度だが、彼らの本質はむしろ、地中にこそある。それが、菌糸。海よりもよほど果てのない、深く広大な地中へ、縦横無尽に張り巡らせる、『根』のような『菌糸』。オニナラタケが伸ばすその広さは、東京ドーム700個弱ほどに相当する。広さにして『8.9平方キロメートル』。この直径を簡易に計算すれば、その数値は『3.3キロメートル』。つまりは『3300メートル』にも及ぶという。
『彼』。ムウは、その世界最大の生物、『オニナラタケ』の
それこそが、ムウ。EBNAの最奥に潜んでいた、『神』にも等しい存在、なのである。
*
狂人の蹴り。それは、砕けた地面で傾く。それでも、的確に身をよじり、重心をコントロール。見事な体捌きで攻撃を継続し、立ち上がった『彼』の腹部へヒットさせた。
「……ああン?」
うまく力を逃さず当てることはできた。天性の柔軟さ、そして、
「遊戯なら付き合おう。だが以前に、彼女の解放を要求する」
ぼふん。と、狂人の蹴りは綿でも蹴り抜くように手応え――足応えなく『彼』を貫き、絡め捕られる。固定され、次には思いがけない強靭さで締め付けられた。そして、
「なああるほど、ねえええぇぇ!」
逃げられない至近で捕らえられ、躱しようもない拳を眼前に捉えて。それでも狂人は、狂ったように、笑った。
そして、吹き飛ぶ。天の果てまでをも貫くような速度で。……だが、そうはならず、とっさにそばの、レンガの壁に片手で捕まり、地面に転がった。
ぼ……。と、燃える。その勢いは目で追えないほどだったが、『彼』は、その
「あっひゃあっはっは……!! いいねえ! これ――」
「嫉妬の黒。『ブラック・キス』。〝
「あ――?」
一瞬で、その狂人は消えた。そして入れ替わりに現れたのは、エディンバラの街にはよく似合う、純白の魔法少女だった。
――――――――
2026年、十二月。イタリア、ローマ。
あの事件から一週間が経った。かの狂人――ネロ・ベオリオント・カッツェンタの行方は、杳として知れない。ギャルが言うには『南極大陸』へ飛ばした、と言うが、見つけられない。
「ハク。……ね。お願いだから、少しは食べてよ」
幼メイドが、男のそばへ腰を降ろし、言う。昼に運んだ食事がそのままで残っていたから。そんなことが、ずっと続いているから。
「ほら、あーん」
すでに呆けて開きっぱなしの、無精髭が伸びっぱなしの口に、スープを向ける。それは口には入るが、そのほとんどを垂れ流す。胃にまで届いているのはいったいどれだけだろう。幼メイドはしょんぼりと気落ちして、それでも根気よく、それを続けた。
最低限を終えて、幼メイドは立ち去る。一人で考えたいことが、山のようにあるのだろう。そう、誰もが気遣って、男を避けた。
そこは、かつてメイドが仕えていたローマの屋敷。男の親代わりである『先生』――
あのときの少女が閉じ込められた、氷牢を保管するために。
「ノラ……」
男はぼそりと呟いた。
この氷は、融けない。それはもう、理解した。あの『神』のごとき『彼』にも、狂人を知っていたギャルにも、その説明は受けた。それでもあらゆる方法を試したが、その氷は、いかなる高温でも融かせない。それを理解するほどには、試行錯誤した。それを融かせるのは、それを形作った『異本』によるものだけである。
この年の七月に、件の狂人、ネロ・ベオリオント・カッツェンタと、現代最強の騎士と名高い、ベリアドール・ジェイス・ダイヤモンドとの決闘があった。互いに相反する『異本』。『災害シリーズ』の一編、『噴炎』と『凝葬』。それらを互いに扱う二人は、まさに天敵同士。ゆえに、それは必然と行われた決闘だった。
そして、勝利したのが、狂人。ネロ・ベオリオント・カッツェンタ。斑炎の悪魔と名高い、『壊し屋』である。
「ハク様」
メイドが、地下室へ降りた。なにも、まだ考えなど纏まらないままに。
「いつまで、こうしているおつもりですか?」
だから、思い付いたことをそのままに、男へ向ける。
気持ちは解る。理解しているし、実感している。同じ思いだ。そう言えるくらいには、少女を思っている。
だけど――だったら、なおのこと。
「いつまでこうしている、おつもりですか……!」
男の目前に腰を降ろし、少女への視線を自分に向ける。そうして向かい合って、男の襟元を、メイドは掴んだ。
ぼろぼろと、涙を流す。少女のこともそうだ。だけれども、こんな状況にあって、無駄でも、空回りでも、……間違ってでもいいから、なにも行動しない男への、これは、怒りの涙。腑抜けた男への、侮蔑を、諦観を感じている、自分自身への、涙。
「いつまでこうしているおつもりですか!!」
「なあ……」
男はようやっと、口を開く。
メイドは、だから少しだけ力を、抜いた。
「あと、60弱なんだよな」
なんの話か解らない。それでも、メイドは辛抱して、耳をそばだてる。躊躇うように間も長い。それでも光明を――希望を持って、男の、先の言葉を、待つ。
「なあ、メイ……」
「はい……はい……!」
自分を見てくれて、ほんのわずかでも、少女から目をそむけてくれて、メイドは今度こそ正しく、歓喜で、泣いた。
「俺は、決めたよ」
「はい……」
生命力が、活力が、意志がその目に宿る。
男の目にようやっと、光は戻った。
「776冊の『異本』。それを、すべて集める。蒐集する。……そして、全部を封印する。この、『箱庭図書館』へ」
それが、狂気のように歪んだものだとしても――それでも、光は、灯った。
その胸にしまった『異本』へ、手を向け、決意する男のその、双眸に。
「だから、助けてくれ、メイ」
「はい。……どこまでであろうとも。たとえそれが、地獄の果てまでであろうとも、ともに参ります。ハク様」
男の襟から手を離し、次は、彼の背中、その服の布を握った。男を、抱き締めて。
ちくちくとした、男の無精髭を感じながら、メイドは頬ずりをした。それは、親に甘えるように、子を慈しむように、あるいは、恋人を愛するように。目を閉じ、その感触を、思い切り堪能する。
男は、目を見開いていた。まっすぐ、見つめる。氷に覆われた、少女のことを。
「少しだけ、待っててくれ。……ノラ」
低い声で決意を伝えて、男は、ボルサリーノを押さえた。
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