Daybreak’s Blue
それから、メイドや淑女の元へ戻る途中。男は『彼』の言葉に首を捻っていた。
「どういう意味だ? 家族を殺す? 俺が……俺たちが、か。……ああ、ジンだな。確かにあいつなら、勢い余って殺しちまうかもしれねえ」
ははは。と、男にしては珍しく、声を上げて笑った。それは少女のことを気遣ってのことだったのだが、本人はそうと気付いていない、無意識の行動であった。
なぜなら、少女は俯き、黙り込んでいるから。そういう態度自体は、確かにある。いくら知識や技能を常人以上に得ていても、年頃の少女だ。感情の起伏くらい頻繁に揺れ動く。
いやまあ、見た目を『少女』に抑えているとはいえ、実年齢はもう二十歳で、『少女』というのも微妙な歳だが。
「あっ……」
不意に少女は、声を上げた。それに男は、やはり無自覚に安堵する。
「どうした?」
「そういえば、三号がハクに話があるみたいよ?」
「三号?」
そういうやり取りがあって、そばかすメイドと、男は引き合わされた。
*
「お初にお目にかかります。
「はいはい。そのへんは伝えてあるから、本題に入りなさい」
「はっ、それでは」
さすがはEBNAのメイドである。失礼な少女の態度にも動ずることなく、話をスムーズに進めた。
それで、彼女の語るところによると。なんとも不思議に抽象的で不確定な依頼を、男は提案されることとなった。彼女はなんらの権利も得ずに、男はなんらの義務も課せられず。それでいてその報酬は、『ジャック・クラフトの時を切る刃』。そばかすメイドが持つ、『異本』だったのだ。当然、男はその依頼を、受けることとなる。
「……可愛いわたしは、お断りするべきだったと思うけれどね。ああいう依頼は」
少女はやや不機嫌そうにそう、言った。そばかすメイドと別れ、今度こそ丁年や淑女を迎えに行く道すがらに。
「『異本』を出されちゃな。それに、あいつの主人であるリュウってやつに会ったら、そいつからの話を聞いてほしい。ってだけだろ? 頼みごとをするかもしれないが、それを受ける義務もない。なんなら話も聞かなくていい。ただ、そういう頼みをさせてほしい。ってだけの、あいつの依頼」
「断ってもいい、とはいえ、あなたは『異本』を受け取ったことで、三号に引け目を感じているでしょう? それが、三号の狙いよ。結局、あなたのことだからリュウって人からの依頼をも受けることになる」
「まあ。……しかし、それでも『断っていい』って言質は取ってんだ。少しでも無理そうなら断るさ」
男は楽観的に言った。そして、その話はおしまい。なぜなら、丁年や淑女と、合流したから。
*
彼らが待つ部屋にて、ようやっと全員合流した。男。少女。メイド(一号・二号)。丁年。淑女。褐色メイドは少女の指示通りに、すでに施設の統治に奔走しているし、執事はいつのまにか帰ったようだ。彼に関しては男とは敵対関係にある。そう長居しないのも当然ではあるが。
そして、幼メイド、ラグナ・ハートスート。彼女も、この部屋にいた。メイドとともに丁年や淑女の世話をしている、という形で。
「待たせたわね。帰るわよ」
そう、部屋に入るなり少女は言った。それに、丁年と淑女が反応し、少女の元へ。
「シュウ。ハクのお守りをありがとうね。……ルガーシさんは?」
「気にすんな。……あの人は、狙撃さえできれば満足だってよ。まあ今回は俺が弾道を指定したから、つまらねえってぼやいてたけど」
「相変わらずね。お礼を言っておいて。……あと、ルシア。あなた当分、外出禁止だからね。うちでハルカとでも遊んでなさい」
「えー、ハルちゃんはちょっと苦手なんだけどな……」
「ことここに至れば、ハルカにもいいかげん、動いてもらわなきゃだし。……だいじょうぶよ。素直ないい子だから」
「まあ、ノラねえが言うなら、やってみるけど。……あいだ取り持ってよ?」
「ええ。もちろん」
そんな子どもたち――といっても、もういい歳に成長した彼らの会話を、どこか他人事のように聞いていると、その男の袖を、小さな手が掴んだ。
「ハク様」
「おお、ラグナ。もういいのか?」
「それで、ハク様。折り入ってお願いがございます」
相変わらずの無表情だが、やや頬を赤らめて、戸惑うように幼メイドは切り出した。
神妙な雰囲気を感じ取って、男は腰を降ろす。幼メイドと目線を合わせ、先を促した。
「ハク様、どうか
「はあ?」
男は頓狂な声を上げた。そして、同じ言葉で、違う威圧感を備えた声が、別の二か所で上がる。
*
どんどんどんどん。と、足音を鳴らして、少女は男と幼メイドの元へ進んだ。
「聞き捨てならないわね。ラグナ。あなた、血迷うのはやめなさい」
「は? ノラ様?」
困惑した様子で幼メイドは、詰め寄る少女に疑問を呈した。
「ノラ様のおっしゃる通りです、ラグナ。あなたはまだ若い。もっと世界を見てからでも遅くはないはずです」
「ですが、アルゴ様」
ものすごい速度で詰め寄った、あるいは、それと同等のような速度でまくしたてたメイドへ、やはり困惑気味に幼メイドは応える。
「だいたいハクは、馬鹿で愚かで弱くて、それでいて自分勝手で強情で、甲斐性なしで、夏でもこんな服装で暑苦しいし、そのくせ辛い物好きでロリコンなのよ! やめた方がいいわ!」
「ノラ様、ロリコンはこの場合、プラスに作用してしまいます! でしたら、飲酒後に着替えずに寝てしまわれるとか、無精髭を剃らずにしてしまわれることもおありで、少々清潔感に難があることを示すべきです!」
やけに熱く男の欠点を語る二人に、うなだれたのは男だった。
「ひでえ。……事実だとしてもひでえ」
「あ……は、ハク様。私が挙げたのはあくまで、一般的な成人男性についてのですね……」
と、メイドは釈明する。しかし、少女はむしろ当然のように仁王立ちで、うなだれた男を見下した。
「それでも、私は、ハク様がいい」
なんと貶されても、気持ちは揺らがないと、幼メイドは無表情ながら決意に満ちた瞳で、そう言いのけた。
だから救われて、男も顔を上げる。その顔に幼メイドは自らのそれをも近付けて、もう一度、願いを口にした。
「だから、ハク様。どうか私を、ハク様のメイドにしてください」
……ああ、そういうこと。と、少女とメイドは、ばつの悪さに目を逸らした。
*
うなだれた姿から、男は身を起こす。それでもまだ、立ち上がる気力はなく、床に腰を降ろした。
「考えてしまったのです。ハク様に言われたことを。私は『どうしてここにいるのか』? それは、メイドとして一人前となり、未来のご主人様に尽くすため。そう、すぐに答えは出ました。……しかし、それは私の言葉じゃない。そしてハク様が問われたのは、まさしく『私の言葉』なのだと理解して、答えることができませんでした。
ハク様の言葉で気付いたのです。私には、私がない。そのときから、ずっと胸部に、ぽっかりと穴が開いたようになってしまいました。呼吸をしても、その穴から空気が抜けていくようで、息苦しい。だけど、それでも、みなさまを見ているとなんだか、穴が埋まっていくようなのです。
アルゴ様がこちらにお戻りに――いらっしゃられてから、たくさんのことをお教えいただきました。アルゴ様は、ダフネ様やアナン様とは違って、メイドとしての教育以外のことも多く、お話しくださりました。多くの国々で、出会った方々。お食事や、気候、風土、あるいは、ご主人様方と語った言葉。そんなアルゴ様がお教えくださったのです。『一流のメイドは、ご主人様を選ぶものです』と。それはEBNAで教わることとは真逆の、ともすれば、それ自体が反逆に等しいお言葉でしたが、私は感銘を受けました。
ですから、これは一流のメイドとしての、私の、誠に自分勝手なお願いでございます。私の心の穴を埋めるには、ハク様にお仕えするしかないと確信しました。そして、そんな自分勝手なお願いですから、私はハク様へ、利益を提示すべきと存じます。
ラグナ・ハートスート。まだまだ未熟なこの身でありますが、全身全霊――すべての力と、すべての技術と、すべての知識と、すべての心を捧げて、ハク様へご奉仕させていただきます。必ずお役に立ってみせますので、なにとぞ、……私を、お連れください」
話を終え、幼メイドはうやうやしく、一礼した。だが、男ほどの一般人にも見抜けるほどに、その体は震えている。それだけの、一大決心の、言葉。
だからそれを受け、男はひとつ、深呼吸を挟む。
「ラグナ。俺はおまえの、主人にはなれねえよ」
その背丈に近付くために、姿勢を正して、正座で視線を持ち上げて、男は返答する。
*
腰を曲げたまま、顔だけ上げて、男と目を合わせる。泣いちゃ、だめ。そう幼メイドは思う。だからこそ、もう、泣いているのだということに気付いた。
「俺は、誰かを従えられるような人間じゃねえよ。弱えから、助けは借りるがな。それに、おまえはメイドじゃねえ。まだただの子どもだ。メイの言う通り、いろんな世界を見て、いろんなことをまだまだ学ばなきゃ、こんな立派なメイドにはなれねえよ」
男はメイドを一瞥して、そう言った。目の前にある幼メイドの目元から、雫を拭う。
「それと、メイドになるってのも、ひとつの選択肢だ。おまえはもしかしたら、自分はメイドになるしかない、と、思っているのかもしれないが、そうでもねえんだ。おまえは、なんにでもなれる。おまえが望んで、努力すれば、きっとなんにでもなれるんだよ。頭はよさそうだから、科学者――研究者にもなれるだろう。教師もいいな。意外と面倒見もよさそうだし、保育士でもいいだろう。まあ、結局は自分の好きなもんに、なりゃあいいさ」
呼吸が、苦しい。幼メイドは肩を震わせ、呼吸を繰り返す。だが、吸っても吸ってもその酸素は、胸に空いた穴から抜けていく。
苦しい。わずかな先を想像して、苦しい。どこで別れを切り出されるか、あとどれくらい、この人を、そばで見続けられるのか。それを思うと、彼女はどうしても、うまく呼吸ができなくなる。
力が入らない。呼吸を荒く繰り返すから、力むことができない。だから、涙ももう、止めどなく、抑えきれない。
それを見て、男は頭を掻く。見ていられない、その姿から目を逸らすように、ボルサリーノを少し深く、目元へ落とした。
「そのために――おまえが世界を見るために外へ出るってんなら、付き合ってやる」
男がそう言うと、幼メイドの過呼吸は、止まった。
「もっと気楽でいい。なにも対価はいらねえ。役に立たなくっていい。おまえがちゃんと呼吸をしていれば、俺は安心する。そのための手伝いを、させてくれ」
そう言って男は立ち上がり、幼メイドへ手を差し伸べた。
「おまえが一人立ちできるまで、『家族』として、ともにいよう。ラグナ」
体を持ち上げて、幼メイドは口元を押さえた。感嘆の気持ちとともに、息を吸う。もうそれは、どこにも逃げずに、彼女の胸に収まった。
息を吸って。息を吐く。呼吸をして。生きているということを実感する。人間であるということを、体感する。
深呼吸――――。そうして肩が降りると、思わず、これまでよりもずっと大きな涙が、ぼろぼろと零れ出した。決してネガティブではない、涙が。
幼メイドは、男の手を、握る。その、無骨に大きくて、優しい、手を。
「うん……うん……!」
溢れる感情を言葉にできなくて、単調に、幼メイドはただただ、頷いた。何度も。何度も……。
「ありがとう……ハク――!」
そして最後に、男の名前を呼び捨てて、幼メイドは、ぐしゃぐしゃにつぶれた顔で、笑った。
*
十二月のエディンバラ。早朝の、まだ日が昇り始めたばかりの薄暗さ。その空の下に躍り出て、幼メイドは、先んじて駆けた。
「ハク、ハク! 早く! ほら、すっごく綺麗な青空だよ!」
吹っ切れたのだろう。言葉遣いも表情も、年頃の少女のように――いや、まさしく年頃の少女として、彼女は、父親へ向けるような声を上げた。
夜明けの青空に、諸手を挙げて。この空が、この世界が、すべて自分のためにあるのだという、そんな幼い認識を体現するかのように。
そう勘違いできるだけに、大切にされていることを疑わないように。
こうして彼女は全身全霊に、世界を受容した。
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