在りし日の微笑
――数年前。
中国湖南省張家界。くしくも世界最長、世界最高度の
といっても、建物があるわけではない。そもそも門下が多いわけでもない――というより、まったくいないという方が表現として近い――流派だ。ご立派な建造物などなく、ただただ大自然の中で黙々と技術を磨いていた。
「……よく来た。お嬢ちゃん」
背を向けて、瞑想でもしていたのだろう。そこへ音もなく近付き、ちょっと驚かせてやろうという少女の魂胆は、思った以上の距離を隔てて瓦解させられた。
「……遠いのよ。おじいちゃん」
だから、言葉だけでも強がっておく。ただでさえ中国くんだりまで呼び出されておいて、ちょっとしたいたずらさえ打ち砕かれたのだ。まだ年頃の少女の機嫌がよかろうはずもない。
それに、老輩は立ち上がり、少女を眼前に向き合って応えた。いくらか年を経たとはいえ、まだ少女のままの彼女と、さして変わらない背丈で。しかし、言葉は紡がない。
「……で、わたしはなにをすればいいの? 言っておくけれど、えっちなのはだめよ。指一本触れさせないわ」
だから、少女からもう一度、言葉を投げた。拳法を修める者として、十二分にしっかりとした肉体を持つとはいえ、もう米寿も近い老輩に対して、少女は貞操観念強めな発言を放つ。もちろん冗談なのだろうけれど。
「ん? ああ、そういう方向性もあったか。思い付きもせんかった」
はっはっは。と、老輩は笑う。これも老輩なりの冗談だろう。
その笑う姿を見て、少女は不思議な感覚を得た。目前の老輩――
「なに、安心するがいい。体には触れるが、性的な欲求は、もう俺のような老いぼれにはないよ」
安心するような、警戒するような、そんな気持ちだった。だがまあ、少女にとっては、実のところ最初から解っていた申し出だったのだけれど。
「お嬢ちゃん。……削痩拳を継ぐ気はないか?」
*
その気はなかった。というより、ない。だが、少女は最初からその申し出を受けるつもりで彼を訪ねてきていた。
「……継げば、『異本』を渡すのね?」
そういう約束だ。『
他面、『異本』をひとところに集めておいて、万一盗まれでもしたら、すべてを一気に失ってしまう、という懸念もあるそうだけれど。ともかく、『
そして今回、馮老龍が少女へ持ちかけてきた提案というのが、自身の持つ『異本』を提供すること、だった。そしてその代わりに、頼みをひとつ聞いてほしい。そのために今回、少女は中国くんだりまで足を運んだわけだ。
ゆえに、ほとんど拒否権はなかった。あり得ないだろうとはいえ、本気で体を要求されたらおそらく少女は、力ずくで『異本』を奪い逃走しただろう。とはいえ、たいていの依頼ならば受けるつもりで来た。
そしてその依頼の内容も、少女の聡明な頭脳で想定してきた。いつかの戦闘の続行。でなければ、削痩拳という後継がいないだろう拳法の、継承。
「ああ、約束しよう」
「ちなみに、あなたが持つ『異本』って?」
少女の言葉に、老輩は準備していたのだろう。かたわらに無造作に置いていた、黒い装丁の一冊を拾い上げ、掲げる。
「『
少女は少しだけ、目を見開いた。
なぜならそれが、そのシリーズの中でもかなり上位の――端的に、総合性能Bの、その中でも強めの一冊だったから。身体強化と、自然干渉。飛行能力、肉体強化、風を操り、天候まで変えられる。基本的に『異本』の性能は謎が多い。だから、なんとなく伝え聞くだけの性能しか、実際に使ってみるまでは解らないものである。それでも、簡単に挙げてそれだけの性能を有すると言われる、強力な、一冊。
「あなた、それに適性があるの?」
「いや、俺には使えん。知っての通り、一冊は持たされるのでな」
さも面倒そうに、老輩は言った。そして、その一冊を、適当に地面へ置く。
「そう……使えるなら、楽しかったでしょうに」
それは、少女が、だ。ただでさえ強い老輩が、さらに強くなる。少女は別段、戦闘狂ではないが、それでもスポーツのように戦いを楽しむくらいの感情はあった。これから削痩拳の修行をするにあたり、老輩との実戦もあるだろうと、実は楽しみにしていた節もある。
「俺は、使えたら、つまらんかったじゃろうがな」
老輩は笑って、先に、構えた。己が肉体、そして技術のみで相手を圧倒する。それこそが老輩の――拳法家の醍醐味でもあるのだ。
「でしょうね」
少女も笑って、
『異本』の蒐集も、もちろん重要だ。だがきっと、それがなくとも、少女はこの一戦を受け入れただろう。修行をして、削痩拳を受け継ぐかはまた別としても。それくらいにあの、エジプトでの一戦は楽しく、なにより、学ぶことも多かった。
少女は慢心してなどいない。『シェヘラザードの遺言』。その『異本』により
だから、鍛えなければならない。これからも『異本』を蒐集するためには。これからも、蒐集し続けるには。男のために、その悲願を達成させるために。
男がその目的に疑問を感じ始めていると、気付いてもなお。
「さっそくじゃが、始めよう」
老輩は言った。
「ええ、お願いするわ。……師匠」
そう言って、少女は、研ぎ澄ます。感覚を、肉体を。きっとそれでも、受けきれないから。
その予感は見事に達成されて、そんな日々が、半年ほど続いた。
――――――――
「……こんなんでよかったのかしら」
崩れたガラスと、褐色メイドを見て、それでも、なにかが違うような違和感とともに、少女は呟いた。
あの半年で、削痩拳を完全に教わることはできなかった。少女の学習スキルをもってしても。だから『皆伝奥義』というのは出鱈目だ。そういう技があることは知っている。老輩がそれを使ったのも見てはいる。しかし、それを教わる前に、老輩は――。
「まあ、いいわ」
首を振る。いまは、他に気にすることがある。そのために、少女は進んだ。散らばったガラス片を踏みしめて、男とメイドが向かったはずの、次の部屋へ。
ふと、足を止める。なぜだろう? 止まらなければならない気がした……?
ああ、と思い至る。そういえば服を着替えたいのだった。えっと、いくつか前の部屋に、クローゼット。あったわね。と、思い出す。だから、踵を返して――。
静止した。
「……うん?」
首を傾げる。いや、
「やぁっとかかったなあ……。クソガキが」
立ち上がる。というよりは、持ち上がる。そんな動きで、ピン、と、メイド服というには露出の多い服を纏った、褐色肌の女性が、起き上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます