40th Memory Vol.8(エジプト/アスワン/9/2020)


 戻されたのは、アブ・シンベル大神殿の入口。そこに一歩踏み入れた場所。そこは、あの世界・・・・に入る前、男が『鍵本』を発動したときに少女たちがいた場所、そのままだった。


(じゃあ、予定通りに)


 少女は心で語りかける。そうして一歩、幼女や幼年より先に、外へ出た。


 注ぐ朝日に目が眩む。ずっと薄暗い部屋にいた反動だ。まだ明順応が完全じゃない。それでも遠目に、その姿・・・を捉える。


 あれが、カイラギ・オールドレーンとフウ老龍ラオロン


 どちらがどちらなのかは、この段階では解らない。だが、『鍵本』発動直前、男が視認し、驚愕の色を示していたのは、間違いなくあの二人だ。名も、呟いていたのを聞き逃さなかった。あの世界に入ったときに。


 一人は、人間とは思えないほどの大男。身長二メートルは軽く超えている。体重も、下手をしたら二百キロを数えるかもしれない。岩のような筋肉は浅黒く輝き、下半身を覆うダメージジーンズは、そのせい・・・・で傷だらけになったのではと錯覚させる。白のタンクトップは惜しみなく筋肉をさらけ出し、重戦車のごとき力強さは、拳をまみえるまでもなく伝わってくる。赤茶色の髪は威勢よく逆立ち、顔は不敵に笑う。柔和そうな目つきをしてはいるが、その奥に輝く澄んだ瞳は、赤く闘志を燃やしていた。


 もう一人は、対照的に小柄な老輩だ。大男の隣に立っているから……というだけでなく、本当に小柄だ。身長は140そこそこ、体重50キロは絶対にないと言い切れる。腕に黒いラインの入った、どこにでも売っていそうな黄色いジャージ姿。それがさらに老輩を弱々しく見せる。顔に刻まれた、幾筋もの皺。だが、それに覆われることなく、瞳だけは爛々と、隙なく周囲を見渡していた。総白髪はふさふさと、禿ることなく長髪で、左右に五分わけに流している。


 ぞくり。と、少女は背筋に緊張を走らせた。どちらかは解らない――いや、むしろどちらともなのかもしれない。見ただけで解る。あの力は確かに、人間を超えた、獣や異形の類に到達している。


(うまく逃げてよ、二人とも。……あれはわたしでも、長くは抑えられないわよ)


 あえて、その心を伝えることはしなかった。ただ、心で思うだけ。


 少女は、暑さとは違う汗を拭って、ゆっくりと歩いた。


        *


「なあ~、まだなん?」


「そう簡単じゃねえんだよ、急かすな」


 アブ・シンベル大神殿の入口付近。その陰に隠れて、幼女と幼年は外をうかがっている。いや、注意深く外の様子をうかがっているのは、幼年だけだ。幼女はかたわらの石に腰かけ、暇そうにしていた。


 あの世界から戻される前、子どもたちは相談していた。戻った先で、待ち受ける敵から、穏便に逃げ切る手法を。


「バレてる時間はない。だから慎重に、だが、慎重にし過ぎている余裕もない。急がず、慌てず、だが、大胆に」


 幼年はぶつくさ言いながら遠くを見つめている。見る方向は二点。


 一つは、少女の進む先。その先にはさほど距離を空けずに、大男と老輩も歩いている。わざわざぶつかるつもりはないが、もしも敵が自分たちに気付いているなら、それは少女が足止めする。そういう手はずだ。


 二つ目。少女や敵がいる方向とはできるだけ離れた、それでいて、障害物の多いあたり。具体的には、アブ・シンベル小神殿のあたり。そちらに、幼年の『異本』で生成した、鏡を飛ばす。幼年の『異本』で作り上げた鏡は、転移先として機能する。つまり、幼年たちが持つ鏡と、飛ばした鏡、その間の距離を瞬間で移動できる。だから、できる限り遠くへ飛ばし、敵から逃げ切れる可能性を上げなければならない。


 だが、その鏡を飛ばすにも、そう簡単ではない。鏡は誰にでも視認できる。ゆえに、敵に飛んでいる鏡を発見されれば、簡単に破壊されるだろう。空を浮き移動する鏡など、怪しいに決まっている。そんな怪しい物体なら、『異本』のような怪しいアイテムの力が働いていると容易に想像できるだろうから。


 そして、鏡を飛ばすにも神経を使う。基本的に、幼年自らが視認していないと、うまく飛ばすことはできない。まったくできないこともないのだが、常に視線を送り、動きを調整しなければ、いつの間にかおかしな方向へ飛ばしているということにもなりかねない。例えるなら、目を瞑って歩くようなものだ。いくらまっすぐ進んでいるつもりでも、いつの間にか逸れているものである。だから、可能な限り、目を光らせ、進める必要がある。


「この鏡の行く末が、俺たちの逃亡を決定づける。可能な限り遠くへ……だが、遠いだけじゃ駄目だ。追い付かれないだけの、遠く、あるいは、物陰まで」


 運の悪いことに、場所は砂漠のただ中だ。だから、物陰というよりは、距離をとらねばならない。幼年は緊張から生じる汗を拭い、遠くを、見つめる。


 ふと、そんな幼年の顔に、影が落ちた。


「これ、そこなわっぱたち」


 天から落ちるような角度で、その声は振り注いだ。


        *


 幼年は、反射的に顔を向ける。その、日本語でかけられた言葉に。


 とっさに、ローブの内側へ、『異本』を隠した。


「……なんですか?」


 幼年は日本語で答える。動揺を顔に――声に出さないように。


 大男だ。さっきまで、まだまだ遠くにいたはずの。そのうえ、少女が足止めするはずの……!


「おお、やはり日本人だったか。いや、驚かせてすまんな。少し、人を探しているのだが」


 まだ、バレてはいない、のか? 幼年はさり気なく、少女の向かった先を確認した。……いない! 老輩ごと、まとめて消えた……!?


(シロ? どこだ? シロ!?)


 大男の言葉を聞きながら、少女の安否を確認する。


氷守こおりもりはく


 ぴしり。と、急に声を張り、大男は言った。だから幼年は、ぴくり、と、肩を震わせる。


「……という男を、知らんかね? 齢30ほどの、東洋人だ」


 見透かされた……? いや、急に声を張られれば、驚くに決まっている。落ち着け。まだ、バレていない。

 幼年は自分に言い聞かせる。


「さあ、知らねえよ」


 幼年が答えると、ふむ、と、大男は大袈裟に自身の顎を撫でた。


「童たち、ご両親はどこにいる? よもや童たちほどの幼子が、二人だけで来ているわけではあるまい?」


「……『アネキ』と三人だよ。『アネキ』はいま、……小神殿の方に行ってる」


「そうか……」


 大男は困ったように空を仰ぐ。「んん~~~~」と唸りながら。

 かと思えば勢いよく首を降ろし、ニカッ、と笑った。


「あいや、すまんかった。邪魔をしたな」


 快活に言い、振り向いた。そのまま後ろ手に手を振り、去って行く。


 その後ろ姿をゆっくり見送った後、幼年は息を吐いた。どっと、疲れが――


「――――!! パララ!」


 気を抜いた瞬間だった。もうだいぶ遠く離れたはずの大男が、また、いつの間にか、目の前にいた。大きく、その大木のような腕を振るって・・・・・・


 幼年は幼女の手を掴む。そして、反射的に、飛んだ・・・


        *


 まんまとはめられた。と、少女は後悔する。


 もしも戦闘になるなら、互いに相手を射程距離に収めた。そんなタイミングだった。不意に、敵の片割れ、大男の方が走り出したのだ。その巨躯に似つかわしくない、とてつもない速さで。


 向かう先は、アブ・シンベル大神殿。その、入口。


「なっ――」


 と、振り向いて、それに『しまった!』と思ったときには、もちろん遅すぎた。


「やはり、おまえたちか。氷守の連れておる、子どもっちゅうんは」


 そして、敵はどちらも速すぎた。正直、見えなかった。と、少女は冷や汗をかく。まさか自分が振り向いている瞬間に、振り向いた先に移動するなど、人間を超えている。


 だが、だとしたら、『異本』……なのだろうか?


 大男はもう、大神殿にまで達した。だが、急に襲いかかるというわけでもなさそうだ。それに、もしそうなっても、あとは任せるしかない。


 せめて自分は、この老輩だけでも止めないと。そう、思い直す。


「残念でした。もう、ハクは地下世界へ降りたわ」


 少女は構える。武術もいくつか、昔、本で読んだ。素手でもそれなりに戦える。たぶん。


「……空手か。素人っちゅうわけでも、なさそうじゃが」


「ええ、昔、ちょっと本でね」


「ほう……」


 言って、めんどくさそうに老輩も構えた。……見たところ、見える範囲に、『異本』は持っていない。


 ぞわわわ……! と、背筋に悪寒が走った。だから、少女は三歩分、勢いよく後ろへ跳ねる。


「……なに、いまの?」


 勢いを表す砂埃が、視界を狭める。それが晴れたとき、目に映るのは、微動だに変わらない、老輩の構え。


 だが、おかしい。おかしすぎる。……だって、もし動いていないとしたら、さっきまでなかったあの、無数の足跡・・・・・はなんだ?


「ふむ。勘もいい。……少し、添削・・してやろう」


 言って、老輩は一度、構えを解いた。そして、鋭く伸ばした両掌を、静かに胸元で合わせる。そのまま、浅く一礼した。


「『削痩拳さくそうけん』。開祖にして、最高伝承師範代、馮老龍」


 片手は手のひらを上に、少女へ向かって鋭く伸ばし、逆の手は老人らしく、腰の後ろに隠し、構えた。


「魂を削る戦いを、所望する」


        *


 まだ、距離が足りない。うかがう感じ、どうやら、使わされた・・・・・


 大男は、もとより寸止めるつもりだった。あの、振り降ろした拳を制止させた姿勢が、その証拠。だが、それで幼年たちの正体を掴んだ。次バレたら、本当に振り降ろしてくるかもしれない。


(まだ、こちらには気付いていないみたいだな)


 幼年が――あるいは幼女が、なんらかの『異本』を使うことを期待しての寸止め。とはいえ、その『異本』の性能については知らなかったようである。その証拠に、幼年たちが瞬間移動した、という可能性にはまだ至っていない。なぜなら、周囲を探す様子をみせないからだ。


 ただただ、空を見上げ、また思慮に耽っているように、立ち尽くしている。


 この間に、幼年は新たに、鏡を飛ばした。この距離だと、普通に歩き回れば、すぐに見つかるだろう。『異本』の力かは解らないが、少なくともあの大男は、かなり素早く動く。この程度の距離は、すぐに詰められるだろう。やはり、見つかる前に鏡での瞬間移動を行い、バレないうちに去る。これがベストだ。


(シロ? もしかしてもう一人と戦っているのか? ……余裕ができたときでいい、返事してくれ)


 もしかしたら、戦闘の最中、少女が気を失っている可能性もある。そんなことは考えたくないし、少女の強さを思えば、にわかには信じがたい。だが、少女に持たせた鏡自体は無事だ。なぜなら、もし壊されたりしたら、『異本』を扱う幼年には解るはずだからである。つまり、幼年の言葉自体は届いているはず。


 一度、少女のことを心配するのをやめた。改めて、鏡の移動に集中する。


(パララ。悪いが大男を見ておいてくれ。不審な動きがあったら言って)


 隣にいる幼女に、念のため、心の中だけで語りかける。さすがに小声で話した内容が大男に聞こえるほどの距離ではないが、いちおう。


(任せとき。もし見つかったら、ウチが撃っちゃる)


 その言葉に疑問を持ち、見ると、幼女は子どもみたいに――まあ、十分まだ子どもだけれど――右手を銃の構えにし、大男を狙っていた。


 そういえば、幼女は電気を扱えるのだったか。と、幼年は思い返す。まだ出会って間もないが、互いの『異本』や、戦闘力については、ある程度、教え合っていたのだ。


(バレない限りは撃つな。一発で昏倒させられればいいけど、相手の『異本』の力も把握してないんだから)


(解った! 撃つで!)


(いや、だから、無為に撃つなって!)


(いや、撃つ!)


(だから!)


 心の中で問答は同じところを巡り、ヒートアップする。そして、最終的には声が出た。


「ごめん、バレてもうた!」


「早く撃て!」


 幼年は言って、幼女の手を掴む。いつでも一緒に、飛べる・・・ように。


「ばーんん!!」


 間の抜けた叫びとは反面、鋭い紫電が、一閃。大男を襲った。

 かに、見えた。いや、確かにその軌跡は、大男へ直撃した。そのはずだ。


「なのに、どうして――」


 なんのダメージもない容貌で、目の前に・・・・

 幼年は目を疑った。よもや、自分と同じ、転移系の『異本』を?


「たまげた童よ。こうもあっさり、それがしに『異本』を使わせるとは」


 言って、幼女の首根っこを掴み上げる。いや、抓み上げる、という方が正しい、容易さで。


「は……な……」


 締められた喉で、高音の呼吸を、苦しく忙しく、幼女はからがら、あがく。ばちばち! と、大男の腕へ、電気を流しながら。……いや、流れてなどいない!


「扱うは『異本』、『白鬼夜行びゃっきやこう』『黒手之書くろてのしょ』。磁力・・を操る『異本』」


 そんな説明など、悠長に聞いている余裕はない。幼女の抵抗は衰え、いまにも止まってしまいそうだ!


「離せ!」


 幼年は大男へ拳を振り上げる。その、対比すればあまりにも小さすぎる、拳を。


「おおおお! すまんかった」


 だがその行動は功を奏したのか、大男は申し訳なくもなさそうに、快活に笑い、幼女を降ろした。


「悪いな、童たち。普通、人体はこれほど脆いのだと、どうも失念ぎみでな」


 空を割くように豪快に笑う。たいして幼女は、何度も咳き込み、嗚咽を漏らした。


「改めて。……某は、カイラギ・オールドレーン。おとなしく話を聞かせてもらえないか、童たち」


 腕を組み、上空から、睨みをきかす。


「加減はするが、死なんとも限らん」


 脅しの色は、微塵もなく、ただただ真実を告げるように、大男は言った。



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