40th Memory Vol.9(エジプト/アスワン/9/2020)
読み切れない……! 少女は焦っていた。幼年の声が聞こえているから。だけど、それに返事をする余裕すらない。
常に限界まで神経を研ぎ澄まして、やっと反応できる。老輩の動きは、それほどまでに洗練されていた。
決して、とてつもない速さがあるわけではない。『シェヘラザードの遺言』を取り戻した少女なら、その動きを読むことも可能だ。なんだったら、初めて見る、自分が開祖だと老輩が言うほどの拳法ですら、即座に理解することだってできる。
『
だが、数合交えただけで、否が応にも理解させられる。これは、医療というには暴力的すぎる。ただただ乱暴に、破壊を追求した拳法だともいえる。
少女は、すぐに気付いた。老輩には、
むしろ、爪のような
具体的な攻撃法としては、その、鋭く洗練された爪先――いや、
*
足がとられる。ただ歩くだけでも嫌というほど思い知っていた。砂漠の砂は、足をとる。だから、かなり早い段階で、少女はまず、場所を移動した。できるだけ幼女や幼年から離れることは、老輩を引き付けるという意味でも有意義だろう。遺跡の一部だろうか? 石畳の地形を発見し、その上まで誘導した。
「一応聞いておこう、お嬢ちゃん」
少女の誘導にあえて乗ってきたかのように、落ち着いた雰囲気で、老輩は言った。
「そちらの戦力と、地下世界からの脱出経路。……とりあえずそれだけでいい。俺らの疑問に答えるなら、乱暴にはせん」
悪い話じゃないじゃろ。と、老輩は言う。構えは解かない。少女も、老輩も。
確かに悪い話じゃないだろう。ちょっとした情報の提供だ。それを知ったところで、地下に降りたいまさら、敵になすすべはない。『鍵本』を持っているならまだしも、持っていないようだし。というより、持っているなら、少女たちの相手をするより、さっさと『試練』へ向かえばいいだけだ。
「悪い話じゃないわね。確かに」
だが、少女はちゃんと確認していた。老輩は、まだどこかに隠しているだろうが、あの大男。彼がダメージジーンズの後ろのポケットに忍ばせていた本。その、特徴的な黒い装丁。『
それは、多くの場合、裏組織、『
「でもね、敵に教えることはなにもないの。そう、教えてくれた人がいる」
若者と会ったときのことを思い出し、少し笑う。あれから、少しは強くなれただろうか?
男の役に立てるほどに、成長できただろうか? これは、それを確認する、
「……よかろう。では改めて、添削を始めよう」
少しも落胆した様子はなかった。いや、むしろ、闘志をむき出し、笑っている。
だからこれは、老輩にとっても望んだ戦闘だった。少女は、だから、手を抜かずに、思いっきり、立ち向かう。
*
その結果がこれだ。少女は焦り、ただただ集中し、敵の攻撃をいなすことばかり考えてしまう。圧倒的な、受けの構え。
刺突が一閃、少女の髪の毛をかすめた。動きは見切れている。躱せなくはない。だが、先読みし、拳を振るってみても、見事に躱され、いなされ、運が悪ければカウンターを喰らう。
繰り返すが、決して速くはない。動きも読み切れる。だが、なぜだか読み切ったはずの動きから、急にわずかなブレが出る。わざわざ自分で技の威力を殺すような、体勢を無意味に崩すような、些細なブレ。それが変則的で、対応を一歩、遅らされる。
理解はできているつもりだ。一見悪手に見えて、その実、こちらを揺さぶっている。そのための、あえての行動。だけど――だからこそ、その部分だけは読み切れない。
「なんなのよ! もうっ!」
振り下ろされる手刀を、衝撃を殺しながら受ける。それが、
結果、敵の手は止まらず、少女の腕に触れる敵の部位は、指先に変わる。そこから、さらに速く、鋭く引き抜き、受けた少女の腕を切った。いや、
傷は、たいしたことはない。どうせすぐに『遺言』の力で塞げる。だけど、こうやって何度も傷付けられ、なのにいまだ、自分は敵に、一撃も入れられていないこと自体が、少女の焦りを加速させた。
「珍妙な術を使う。……どうやらそれが、お嬢ちゃんの『異本』じゃな。身体強化系。肉体も、……頭脳すら、強化している」
言い当てられても動揺はしない。そもそも少女の『異本』は、少し戦闘すれば誰にでも予測できる類の性能だ。
「どうやらそれで、俺の拳も見切っているようじゃが……まだまだ甘い。一合打ち合って、敵の力を、戦術を、思考を読むことなど、
その言葉は、本心だ。そう、読める。だから本当に、この展開はまだ、老輩の掌の上なのだろう。
なにか、打開策を見つけないと。と、少女は思う。だが焦って、うまく思考が働かない。
「まっすぐじゃな、お嬢ちゃんは」
不意にそんなことを言って、老輩は腰を伸ばした。背中に回した手で、腰をいたわり、空を見上げる。緊迫した戦闘中にはあるまじき、ほのぼのした一コマだった。
「そういう瞳は、打ち合わんでも解る。無邪気な子どもみたいな、まっすぐな目」
腰を伸ばし終えたのか、老輩は顔を下げ、少女と向き合う。
「そろそろ大人になって、曲がることを覚えるんじゃな。でなきゃ、なにも守れやせん」
「大人になんかなりたくないわ。だって、
その返答に、はっはっは、と、老輩は笑った。笑って、静まり、射すくめるほどの眼光で、少女を刺す。
「少し、速度を上げよう。お嬢ちゃん。ここで成長できんと、……死ぬぞ」
改めて、構える。一分も変わらない構え。だが、その周囲の空気が、張り詰める。俗に言うなら、オーラが老輩を覆っていくようだった。
「きなさい。……なんと言われたって、わたしは、可愛いを諦めたりしない」
少女も、構える。邪心は、消えた。
暑さも、乾燥も。幼女や幼年のことも、自分自身のことすらも、瞬間、頭から消える。恐怖も、焦燥も、緊張すらない。
だが、一つ、勝機は見つけた。
*
速い。確かに、速い。
それでも、さほどの違いはない。動きを先読みし、対応する、という点では、速さなどおまけのようなものだ。
「まだ、ついてこられるか」
「も少し、上げてもいいわよ?」
余裕を乗せて、笑む。その顔は、さきほどまでとは違う。ただ対応に躍起になり、いっぱいいっぱいだった、さきほどまでとは。
なにやら掴んだか。と、老輩は悟る。あとは、どこで仕掛けてくるか。それ次第だ。
突く。速度を、さらに上げる。もちろん緩急は忘れない。少女がまっすぐなら、自分の動きを読み、素直に受けるだろう。その結果、緩急部分には対応しきれない。その繰り返しだ、実に、つまらない。
少しだけ、力む。ここで速度を、もう少し、上げる。手刀を振り降ろす。さきほどと同じだ。少女は受け、その瞬間に自分は引き、削り取る。今度は
老輩は、思い、手を、……振り、降ろした――!!
「なんっ――!?」
天地が返る。瞬間、本当に理解できなかった。
そして、理解する。
「……解るの? さすがね」
木を削り取るのは容易だ。どっしりと構える、ただのサンドバッグのようなもの。
葉を削り取るのは難しい。その重量、流体の動き。それらを読み切る目が必要だ。
だが、少女がとった手は、葉を木に見せかける行為。すなわち、筋力の、急激な弛緩。
「いや、弛緩どころの話ではない。本当に、実際に、いきなり筋肉を
老輩は言う。いままで、数多の強敵と戦ってきた。力を極めた者。技を研ぎ澄ました者。気力の限りを尽くして、不倒に立ち向かってくる者。だが、ただ力を緩める、という技術ではなく、本当に筋肉を瞬間で、
「大人になって、
少女は無邪気に笑って、語りかける。まるでなんでもない、おじいちゃんとの幼稚な、ごっこ遊びのただ中のように。
「あなたは、本当に正確に、わたしの力を見抜いていた。だったら、大人になるのも
おかしな表現だが、戦闘で相手を傷付けられるのは、その相手の
達人になれば、その相手の
だから、拳を交えたときの、自身に返る衝撃も当然、計算している。そしてそれに耐えきれるように踏ん張り、重心もコントロールする。
だったら、それを狂わせればいい。狂わせ方は、非常に簡単だ。力を上げるか、下げるだけ。
それだけで、相手の重心は狂う。
「面白い……、これなら俺も、もう少し本気を出せそうじゃ」
老輩は不敵に笑う。そうして、体を少し、曲げた。
「残念だけど、もう、お別れなの」
言って、少し困った、無邪気な笑顔のまま。
唐突に、突発に、少女は消えた。
*
「おお、ラオロン! どうした。こんなところで、ぼうっとして」
ややあって、言葉通りぼうっとしている様子の老輩のもとに、大男がやってきた。
「いや、……久しぶりに少しは楽しめそうだったところで、おあずけを喰らってな」
気が抜けたように、空を眺める。
「そっちこそどうした? 他の子どもは、捕まらんかったのか?」
「いやあ! 逃げられた! やるな、あの
がははは! と、豪快に笑う。空を割くような大声で。
「おまえから逃げるとは、他の子も、なかなかやるもんじゃ」
そんな相方を見、大男は自身の顎を撫でる。なにやら思案顔で。
「なんなら
ニカッと笑い、どこか楽しそうに提案する。
そんな相方を見つめ、老輩はため息をついた。
「いやじゃ。俺を殺す気か」
言って、微笑む。
「大人になることが、強くなることとは限らんのじゃがな」
「うん? なんだって、ラオロン?」
雲一つない空を見上げ、もう一度、老輩は盛大に、ため息をついた。
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