7th Treasure Vol.3(ニュージーランド/ワンガヌイ/8/2020)
くぐもった光に目を覚ます。と、目の前には彫刻のような恐ろしい顔。
「わわわ!」
少女は思い切り身を引く。すると落ちる感覚。だから高所にいるのだと理解し、必死で受け身を取った。幸いにも、その落下は腕一本分の高さだった。
見た目よりも柔らかな、もといた高さに手をかけ、おそるおそる覗き込む。確かに、そこには変わらず、恐ろしい顔面をたずさえた男が立っていた。
「少し、彼を寝かせてあげた方がいい」
男は言った。声を聞いて思い出す。この男は案内役だ。そしてここは……どこだろう? いや、思い出してきた。自分はマオリ族の集落に来ていたはず。
見渡す。見覚えのない部屋。だが、不安はすぐに消えた。部屋の隅に、灰にまみれたような色合いの少年を見つけたからだ。
「もう寝てるじゃない」
少女は言う。少年は膝を抱えた体育座りで、どうやら寝息を立てていた。
「そうではなく……横にさせてやれ」
男は言うと、少女が手をかけていた高さに、少年を運んだ。そうか、ベッドから落ちたんだ。と、少女は遅ればせながら理解する。
「ヤフユ、なんでそんなところで寝てたのかしら? これもなにかの修行?」
普段からほとんど物を食べないことも修行だと言っていた。だから寝ないこともそうではないかと予想する。そういえば、確かに眠っている少年を、少女はあまり目にしたことがなかった。
男は怪訝そうに眉を上げる。顔に刻まれた多くのタトゥーのせいで、先日は男の表情を読み取れなかったが、慣れてみると、それは確かに人の顔だ。
「……俺には解らん」
言うと、男は出て行った。
まだ朝も早そうだ。少女は大きく伸びをし、無遠慮なあくびを一つ。
「わたしも、もう少し寝ようかしら」
呟き、少年の横に潜り込む。二人で眠るには、やや狭い。
*
目覚め、簡単な食事をいただき、老人へ挨拶を済まし、マオリ族の集落を後にした。その間、常にどこか、少年は思案顔だったことが、少女にとってどうにも印象的だった。そういえば昨日のいつごろだったかから、どことなく少年の雰囲気が違う。どこかしら。少女は目を凝らした。
「……なにか?」
居心地が悪そうに、少年は言う。
「いや、なんかヤフユ、変だから」
少女は言う。
少年は嫌そうな顔を向けた。
「わたしはもとから変だ」
「そうなんだけど」
少女は否定しなかった。それは少年に複雑な感情を与えた。
「……特に用事がなければ、もうこのまま日本へ帰るつもりだが」
やや語気を上げて少年は言う。急な話題の転回と、無遠慮な視線を振り切るために。
「ええ! せっかく来たのに!」
いやらしい視線は消えたが、面倒な言葉が返ってきた。
「半日でいいから、観光していきましょうよ!」
半日。という時間設定が絶妙だった。本日中に日本へ向けて発てば、それは少年にとって予定通りだった。そもそも時間的には余裕をもって行動している。比較的スムーズに進んだ旅程だったから(少々起床時間が遅かったくらいだ)、半日くらいなら自由にもできる。
そしてなにより、少年は、どうせ言い争っても負けるような気がした。
「半日だけだよ」
その言葉に、少女は無邪気に、満面の笑みを溢れさせた。
つまり、どちらに転んでも、少年は負けるのだ。
*
まず、トラムに乗る。路面電車だ。二十世紀前半には人々の交通手段として用いられていたが、現在動いているものは数少ない。その上、運行回数も限られているが、二人は運よく、それに乗ることができた。
「素敵ね。とても古いのは解るのに、こんなに綺麗」
「整備が行き届いているんだろう。わたしも乗るのは初めてだが、時を経たものは、それだけで美しい」
独特な匂いがする。開けた乗り口で、ワンガヌイの町からの風が吹き込んでいる。にもかかわらず、車内は古き良き匂いが充満していた。素晴らしいものはそれだけで人間に共感覚を押し付ける。
「せっかくだから、車窓に映る町並みを見ておこう」
少年が少女を促す。自然に町が溶け込んでいる。町が自然と共生している。その姿は、本物の鼓動を奏でているようだ。
「やだ、なんだかわたし、ここに住みたくなってきた」
なにげない一言だった。だが、言ってみて、少女は自分で、不思議な気分になった。
男に拾われてから、特定の住居に住んだことがない。各地を転々とする生活を、二年弱送ってきた。そんな自分が、まだ、定住することをイメージできたなんて。
そんな自分に、少しだけショックを受ける。選択肢は、人を幸福にもするが、不幸にもする。どこかの誰かと、いつか平穏に定住する未来など、想像すらしていなかった。
ゆったりと進むトラム。流れる町並み。時の流れ。
少女は気付き始める。
この世界に、未来というものがあることを。
*
トラムを降り、ワンガヌイの川辺に出る。そこにはこれまたレトロな外輪船が停泊していた。
ワイマリエ号。こちらも二十世紀前半、運搬や交通手段として活躍した船だが、後半には使われなくなり、なんと四十年もワンガヌイの川底に沈んでいた。が、熱烈なボランティアの活躍もあり、二十一世紀から再始動した、珍しい蒸気船である。
「本当は乗せてあげたかったんだけど、十月から四月までしか運航していないんだ」
少年は端的に言った。申し訳ないという気持ちはなさそうだ。むしろどこか誇らしげでもある。
「じゃあなんで停泊しているのかしら」
少女もさほど残念がることもなく言った。乗りたいという気持ちもあったのだが、件のワンガヌイ川を見られただけでも満足していたのだ。
「整備でもしているのかな……歩こうか」
言って少年は先導する。川沿いをゆったりと歩いた。
「悪い意味じゃないけれど、人格を認められた川って割には、意外と普通なのね」
特に落胆というわけではないが、訝しむように少女は言った。人格を認められた、というワードが強烈過ぎたのか、想像が先走りし過ぎた結果だろう。
「水は生命の源だ。ほとんど食事を採らないジンですら、水だけはちゃんと飲んでる」
「そりゃお水は飲まなきゃ生きていけないでしょ」
「その通り。だから歴史上、どんな文明も、まず川のそばにできる。川というのはそれだけで、すでに神のように崇められるもので、親しい友のようで、愛する家族みたいなものなんだ」
少女は少年を見つめ、耳をそばだてる。少年の言葉はいつも胸に響く。その独特な声は、いつだって少女の奥底をくすぐる。
「こっちだ。渡ろう」
少年は少女の手を引いた。
神の川を渡る。
*
傾斜が目立ってきた。
「この辺りはデュリーヒルという丘だ。あそこのタワーに登ろう。ワンガヌイの町が一望できる」
少年が指差す。そこはデュリーヒルにある、戦没者慰霊のメモリアルタワー。頂上の展望台からの眺めも絶景だが、そこまでの道程も面白い。南半球では唯一の
エレベーターで登り、タワーの足元へ出る。そこからはひたすら176段の螺旋階段を登る。階段の途中からでも周囲は窺い知れ、展望台への期待を後押しする。
若い二人だ。螺旋階段くらいは難なくクリアした。
「すごい……いい景色……」
少女は感嘆の声を上げる。
「ああ、絶景だね。わたしも初めて登ったよ」
少年も息を吐いた。
すぐ眼前を流れるワンガヌイ川。その奥に広がる、自然と同化したようなワンガヌイの町並み。広大な森林。澄んだ空。雪の積もる山々。この場所に来ると、地球は生きている、という感覚を得ることができる。
その中にある、人々の営み。風の流れ。川のせせらぎ。……そうだ。我々は、
「ねえ、これなにかしら」
少女が展望台の手すり部分を指す。見ると、そこかしこに南京錠がかかっている。
「なんだろうね」
少年も首を捻った。手すりにかけられた南京錠。その掛け金部分にもう一つ、別の南京錠がつけられている。二つの南京錠が組み合わされてかけられているようだ。
「なにかのおまじないかな」
少女は南京錠に触れながら言った。
「そうかもね」
だが、少年はどこかで見たことがあるような気がした。しかし、どうにも思い出せない。
「そうだ! わたしたちもかけましょうよ!」
「……南京錠なんて持っていないけれど」
「あるじゃない、これ」
少女が示したのは、互いのリュックに取り付けられた南京錠。メイドが旅行先での盗難防止に取り付けたものだ。
「……まあ、もう帰るだけだし、置いて行ってもいいか」
少年はどうにも
少年が一つ目を手すりにかけ、少女が掛け金部分に自身のものを取り付けた。
そして、少女が手を合わせ、目を閉じる。
「なにをやっているんだい」
「なんとなく、拝んでおくの」
少年は信心深いわけではない。むしろ現実主義的な人間だが、いちおう少女に倣っておいた。
このいわゆる『愛の南京錠』について少年が思い出すのは、日本に帰ってからである。
*
メモリアルタワーを降り、改めてデュリーヒル側からワンガヌイ川を眺める。特別なにかを見るというわけではないが、長い長い時を、人々に寄り添い流れてきた、その息吹を感じ取る。
深呼吸をして、少年は切り出す。
「さて、そろそろ帰ろうか、シロ」
隣にいる少女へ言う。
少女は驚いたような、怒っているような、恐れているような表情で、遠くを見ている。
「ごめん。ヤフユ」
少女は突然駆け出した。突然のことに少年は一瞬、逡巡した。だが、すぐに我に返り、その後を追う。
「どうした! シロ!」
思っていたよりもずっと速い少女を追い、声を上げる。
「ごめん! ヤフユ!」
さきほどと同じ言葉を叫ぶ少女。だが、謝られても意味が解らない。その上、速度も微塵も落とさない。
少女は丘を降り、橋を渡る。ワンガヌイの町に戻った。道を折れ、川沿いを進む。その道は、来るときに通った道。向かう先は、ワイマリエ号が停泊していた辺り。
その乗船場。そこにはまだ、件の外輪船が停泊していた。
「……久しぶりね」
肩で息をしながら、少女は話しかけた。
その相手が振り返る前に、少年も追い付く。少女が話しかけた相手を見た。
「……なんじゃ、
ジャラジャラとアクセサリーの付いた軍帽を上げ、その赤髪の女は振り返る。
その抜群なスタイルとは不似合いな顔つきは、少年や少女のように幼い。
剥き出した犬歯が、夕日を反射し、わずかに赤みがかって、鈍く光った。
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