7th Treasure Vol.2(ニュージーランド/ワンガヌイ/8/2020)
「あの、ヤフユ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だから、問題ない」
少年がその特徴的な声で囁くと、少女はいくらか安心できた。
改めて、目的地を見る。目的地というか、その門前に立つ二人の男を。
身長は180を超えているだろう。まさしく部族漢とした立居姿。その半裸の端々から屈強さがうかがえる。赤黒い肌には全身のそこかしこにタトゥーが彫られている。が、その刺青は少女の知っている知識内のものより生々しく、痛々しい。表皮に凹凸ができるほどの深さ。おそらく入れるときの痛みも尋常ではないだろう。そんな現実離れした男が二人、それぞれ長物の武器まで持って仁王立ちしている。
マオリ族。ニュージーランドの先住民。二十一世紀になったいまでも、彼らは祖先の歴史を引き継ぎ、生きていた。
「いや、やっぱ無理」
少女は後ずさる。
「大丈夫だから」
少女に微笑みかけ、少年は一歩、歩を進めた。
そして門番の片割れになにかを伝える。どうやら英語だが、やや距離を空けていた少女にはその言葉は聞き取れなかった。
すると話しかけられた男は屋内に向けて声を上げた。そちらの言葉は英語ではないのだろう。少女にとっては、しかと聞こえていたが理解できなかった。
「ぐわああぁぁ!!」
すると今度は、戸を開け三人目の男が勢いよく現れた。門番の二人よりもさらに屈強で、また、タトゥーの密度も高かった。そんな、言葉を選ばず言ってしまえば、恐ろしい容姿をした男が声を張り上げ、少年に向かって襲いかからんばかりの勢いで威嚇をしている。
「ヤフユ!」
少女は危機を感じ、前に出る。
「やめろ!」
だが少年はそれを強く、言葉で静止した。
三人目の男は目標を少女へ変え、やはり雄叫びと表情、武器などを構えて威嚇する。
「目を逸らさないで」
少年が優しく言う。少女は気を強く持ち、男を睨んだ。
やがて男は、二人の足元にシダの葉を置く。威嚇を続けつつだ。
「目を合わせたまま、ゆっくり拾うんだ」
少年からの指示に少女は従う。
無事拾い上げると、男は表情を崩し、少し笑った。
「ようこそ、ジンの子どもたち」
男は流暢な英語で言って、少年と額を合わせた。鼻もくっつけ、目を閉じ、深呼吸をする。ホンギという彼らの挨拶だ。
「同じように」
少年は端的に言った。
「え、……うん」
少女は緊張しながらも、見よう見まねで相対した。
額と鼻を合わせ、目を閉じる。そして、深呼吸。その一瞬には、永遠のような会話があった。
*
建物の中に入る。そして、すぐ裏口から出た。いや、むしろ裏手が本来の目的地だったのだろう。建物は通行所のようなものだったのだ。
「ジンから話は聞いている。『
「気を悪くしないでください。ジンも本意ではないのです」
「気を悪くするなど、とんでもない。ジンには感謝している」
「そう言っていただけると、こちらも助かります」
少年と男が先を歩く。少女はその姿を恨めしそうに睨みながら、三歩後ろを着いて行った。
「それで、この子は?」
その視線に気付いたのか、男は少女へと話題を振った。
「ああ、気にしないでください。わたしの助手のようなものです」
「助手じゃないわ。ノラよ。ノラ・ヴィートエントゥーセン」
少女は少年の言葉にかぶせ気味に反論した。その齟齬に、男は困惑する。
「……シロです。今回わたしのサポートをしていただくことになりまして」
少女の顔色をうかがいながら少年は訂正した。反論がなかったので、サポートと言い換えれば最低限の満足を与えられたと納得する。
「シロ? ノラではなく?」
男は言った。結局また困惑することになる。
「ああ、それは――」
少年も困惑して、少女を振り向いた。
「……シロでいいわよ。べつに」
機嫌悪そうに、少女は言った。
*
建物の裏手、広く開けた庭を進む。庭というより祭祀場のような様相だ。ところどころに置かれた彫刻や、祭壇・祭具のように見えるものもちらほら見かけられた。だがそれらは、全体として纏まった様子がなく、散逸的だ。おそらく一連の祭事に使われるというわけではなく、ひとつひとつの設備が、それぞれ単独で用いられる場所であり、物なのだろう。
そのうちの一つの設備に近付く。それは見たところ、最初に通過した建物よりもはるかに小さい、ぼろぼろの木造建築だった。住むためではなく、収納するためのもの。それも、ちょっとした用具を纏めておくためだけの小さな小屋、といったものだろう。
「――――」
男が少女の知らぬ言語で声を上げた。だが、その言葉の中に『Te wai ma』という発音が含まれているように、少女には聞こえた。
え、もしかして、ここに『異本』が?
『異本』すべてが大切に保管されているとは少女も思っていなかったが、それにしても酷い建物だ。いつ倒壊してもおかしくない。いやむしろ、すでに朽ちかけていると言ってもいいだろう。そんなところに、『異本』が?
だが、そんな少女の心配は、別の方向へ向くことになる。
「――――」
内側から、やはり聞き慣れない言葉が返ってきたのだ。
*
その部屋に入ると、すでに建物と同化したような、干からびた老人が座っていた。
「――――」
少年が言う。少女には理解できない言語でだ。
老人はなにかを答え、少年は老人に近付く。老人と少年は額と鼻を合わせ、目を閉じ、深呼吸をする。ホンギだ。
老人は確かに干からびている。だがどうしてか朽ち果てる気がしない。門番や案内人の男と違い、年のせいか、十分に衣服を全身に纏っている。だが露出している顔や手先、首元などには、男たちとは比較にならないほどのタトゥーが刻まれていた。マオリの文化に詳しくない少女にも、そのタトゥーの数は、位の高さを表しているのだろうことは予想できた。おそらく、眼前の老人は一族の長なのだろう。
くぼんだ刺青の跡。浮き出る血管。寄り合った皺。その様相はどこか人間離れしており、なおかつ神聖さすら感じられる。
そんな老人と、少年は何事かを語り合っている。その内容に興味はあったが、対話中に割り込むことは躊躇われた。単純に話を遮りたくないというよりかは、遮ることが罪な気さえしてくる。せめて案内役の男に通訳を頼めないかと期待したが、男はすでにそこにいなかった。本当に案内役でしかなかったのだろうか?
そうこうしているうちに話は終わったのか、少年が少女のもとへ戻ってくる。
「あなたも挨拶してくるといい」
見ると、老人が少女を見つめていた。くぼんだ眼光は、赤いような黄色いような、どっちつかずの橙で、その火は、決して消えていなかった。
少女は引き寄せられるように老人に寄り、ホンギを行う。
「――――」
深呼吸を終え、目を開ける寸前。少女は老人がなにかを言った気がした。
*
小屋を出て、久方ぶりのような気がする日を浴びる。見ると、さっきまで横にいた少年がいなかった。少女は少し驚き、少し笑った。急に消えるのは、なんだか久しぶりね。と、そう思ったのだ。
瞬間の後、少年も外へ出てくる。どことなく印象が変わった気がしたが、少女はすぐにはそれに気付かなかった。
「それで、目的は果たせたの?」
違和感は脇に置き、少女は言った。
「おおむね」
少年は短く答える。なにか思案顔だ。
「それで、終わったならホテルに戻る? いったいわたしを差し置いて、どんな話をしていたかも気になるし」
言葉にするとふつふつと不満が湧いてくる少女だった。『Te wai ma』については話せないにしても、それに関わりのない会話はすべて聞き出してやろう。
今夜は寝かせないんだから。と、少女は思った。
「ああ、いや、まだ終わっていないんだ」
というか。
少年は歯切れの悪い言い方をする。
「今夜はこちらに泊めていただくことになっている」
「うん?」
少女はなにを言っているのか理解できなかった。おそらくはマオリ語であろう、さきほどから耳にする知らない言語を使われたかと、一瞬、本気で思った。
「え、ここに? ……わたしも?」
「あなたが嫌なら無理をする必要はないが、わたしは所用もあるので泊めていただくことにする」
「じゃあわたしに一人でホテルに泊まれって?」
「そうは言ってない」
「荷物は? 先にホテルに預けちゃってるじゃない」
「必要なものがあるなら取りに戻ってもいい」
「そう、それはご親切にどうも!」
少女は言って、少年に背を向けた。
少年は頭を掻き、やがて少女の後ろ姿に寄り添った。
「居心地が悪いのは解っているつもりだけれど。これも必要なことなんだ」
少年は言って、少女の頭に手を置く。が、少女はその手を振り払った。
「いいわよ、べつに」
まったくよくなさそうな語気で、少女は言った。
*
ハカと呼ばれる踊りや、ハンギという、
「すごいわ、ヤフユ! すごい迫力! すごい!」
「ああ、そうだね」
すでに語彙が崩壊している少女に、少年は適当に答えた。
「なにあれ! え、埋めるの!? あれって料理!?」
「ああ、そうだよ」
焚火の火よりも爛々と目を輝かせる少女に比例して、少年はどっと疲れが溜まっていくのを感じた。
少女の機嫌が直っていくに従い、少年の方に珍しく、不満が鬱積していった。だが、少年は
ハカは、迫力ある男たちのものから、優雅で美しい、女たちのものに変わっていた。そしていつの間にか、その踊りの中に、少女も混じっている。
「あははは、楽しい!」
本当に楽しそうに、少女は笑った。言葉にはしなかったが、少女は手招きし、少年をも誘う。少年はジェスチャーで丁重にお断りを返した。
少年はその場で使われているすべての言語を理解していた。ニュージーランドで主に使われる英語、マオリ族の言葉、マオリ語、まれにサモア語も聞こえる。そんな中でも、少年の耳には、少女の言葉が強く響いた。それは、日本語を話しているのは少年と少女だけで、少年にとっても一番聞き慣れた言語だからなのかもしれない。
そんなことは解っていても、実際にそう聞こえてしまうという現実は、少年の心に、深く根付いた。
空を見上げる。見慣れない、南半球の空。ちょうどニュージーランドの国旗にも使われている南十字座が目についた。
「なになに? なにか見えるの?」
不意に、少女が少年の横に戻ってくる。遠慮なく流された汗が、どうしてだかいい匂いを発していた。
「南十字座だね。日本からだと、基本見られないから」
少年は指さす。
その指先を辿るように、少女は少年の肩に寄りかかった。
「あれ?」
少年と同じ方向を指さす。数十光年も離れた光を示したとて、それをうまく共有できているかはあやしいものだった。だけど、少年は匂いから逃げるように「そうだね」と腕を降ろした。すぐそばにニセ十字座という似たような星座があるが、ややこしくなるため口を噤む。
少女も腕を降ろすが、その頭は、いまだに肩に傾けられていた。
「……シロ?」
少年は言った。だが、反応はない。胃の奥底がむず痒くなった。
「ノラ」
少女の名を呼んでみる。それは単純に気恥ずかしかった。だが、それでも反応はない。
見ると、大方の予想通り、少女は薄い寝息を立てて、眠ってしまっていた。
少年はため息を吐き、少女を抱き上げる。案内役の男に寝室の場所を聞いた。
*
「わたしは、もしかして試されているのだろうか」
少女をベッドに寝かせ、部屋の隅で、頭を抱える。
どう見ても、寝室にあるベッドの数は、一つだった。
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