ワンガヌイ編

7th Treasure Vol.1(ニュージーランド/ワンガヌイ/8/2020)


 2020年、八月。ニュージーランド、ワンガヌイ。


 北島ノースアイランド西海岸にある都市。美しい自然。絵画やガラス工芸品などの芸術にも優れたクリエイティブな町。また、この町を河口とする同名、ワンガヌイ川は、2017年三月に、世界で初めて法的に人格を認められた河川だ・・・・・・・・・・・・・・。これは、この川を崇拝する先住民、マオリ族からの長年の主張の賜物である。


「それにしてもどうなってるのよ、あのジンって人は」


 少女が言った。


 南半球の八月といえば冬である。だがワンガヌイの気候は、真冬でも平均で10度程度の気温を保ち、もっとも寒くても氷点下を迎えることはまずない。


 少女はいつも通りの白い、ノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。肘近くまでを覆うオペラグローブとかさばるから、それは本当に羽織っているだけだ、袖を通していない。そんな半端な着方だが、それゆえに、それは無垢な年頃の少女によく似合っていた。


「あなたが文句を言うには理が足りない。指名されたのは、わたしだけだ」


 少年が言った。


 長年作業着として使い古された衣服を綺麗に洗濯したような、ムラのある色合いの衣服だ。というより、その通りのものなのだろう。裾や袖がほつれ、首元はやや伸びている。だがその、ダラリと余裕をもって着用された衣服は、どこかつかみどころのない少年にマッチしている。もともと白かったであろう、現状灰色になってしまった全身コーデは、同様に灰色の髪色をした少年によく似合い、生まれたときから着ていたかのようだ。


「でも、わたしがいないと困るでしょう?」


 少女はいたずらっぽく少年を振り返り、言った。


「いや、だから、それ・・もとうに不要だと言っている」


 少年は右手を持ち上げて、言った。

 少女はむくれる。


 だが少年はなにも反応せず、規則正しく歩くだけだ。立ち止まった少女を追い越す。その後も少しの間、少女は不機嫌オーラを少年の後ろ姿にぶつけていたが、やがて見失いそうになったので、諦めて走った。


        *


 ――一週間前。


「見て見て、『姉様』! これはハルカが作ったのだわ!」


 純真な女児が湯気立つフライパンを持ち駆けて来る。


「ほらほら、『姉上』! こちらはカナタが作りました!」


 無垢な女児が同様に吹き零れそうな鍋を持って来た。


「ああ、もう、うっとうしい! それに熱いわ! 作りたてだったら、扱いには気を付けなさい!」


 言いながらも律儀に味を見る少女は、まんざらでもなさそうだ。


「……くそまずい」


 だが、真実とはいえ口汚い。その点、姉としてはまだまだ、修行が足りなかった。


「「ひどいー」」


 とはいえ、この二人の女児をあしらうには悪手というほどでもないようだ。むくれてはいるが、左右対称に少女に抱き付く。器用に、熱を持った調理器具を接触させないように留意しながら。


「……シュウ。あなたはなにを作ったんだい?」


 二人の女児の性格に対比しているせいか、いまだ扉のあたりで立ち尽くす幼年に、長兄である少年が助け舟を出した。

 言われて仕方なく、といった体で、幼年は頬を掻き、控えめに入室する。


「俺のは別に……自分用だから、人様に食わせられるもんじゃ……」


 言いながらも、わずかに少女たちに向ける。その機微を感じ取り、少女は手を伸ばした。


「ん……おいしい」


 確かに味が薄く、素材への火入れもまばらだ。だが、女児の作ったものを食べた後では、十二分に「おいしい」と言って差し支えないだろう。少なくとも少女の味覚には、それは差し出されれば完食できるレベルの味であった。


「だいぶ上達したわね、シュウ」


 笑顔を向けて、少女は言う。


「まあ、俺はちゃんと、あの人に教わっているから」


 視線を逸らし、頬を掻く。眉間に皺こそ寄っているが、それは明らかに照れた様相だった。


「「またー、シュウー」」


 怒ったような、恨むような声で、女児二人がシンクロする。幼年が料理を教わっている『あの人』とやらに、まだ禍根を残しているのは、この二人だけだ。


「『また』というなら、あなたたちもだ。ハルカ。カナタ。この腕のことは――」


「はいはい。説教も『また』よ、ヤフユ。……ともあれ、あなたも食べなさい」


 ほら。あーん。

 いつも通りに・・・・・・、少女は、スプーンで掬った一口を、少年に向けた。


「いや、ですから、シロ。わたしは――」


 拒絶の言葉に、少女のこめかみがわずかに揺れた。


「『また』、ぶっ倒れたいの?」


 その声質はむしろ、それ自体が少年を、ぶっ倒しそうだった。差し出されたスプーンに力が籠っていることに気付いて、少年は脱力した。


 観念して、口を開く。


        *


「あーん。で、ございます。ジン様」


 時を同じくして、世界的に見れば誤差すらない同一座標上で、同じことが起きていた。


「…………」


 差し出されるスプーンと仏頂面に、若者は頑として応えない。一言でも口を開けば、それは少女のような可愛げもなく、無理矢理に口内へぶち込まれることはすでに学んでいるからだ。


 メイドはスプーンを一度引き、嘆息する。それでも若者は油断しない。言葉を発することはおろか、念のため口元を両手で覆った。


「はあ。ここまで強情なご主人様は初めてでございます、ジン様」


 メイドは若者のために用意した食事を、自ら一口含んだ。「こんなにおいしくできましたのに」。咀嚼し、呟く。


 どうして、こんな羽目に陥った? 若者は自らの人生を省みる。ぼくがなにか、悪い事でもしたか?


 極限まで、なにも食べない。その行為に、若者は酔っていた。他にも多々ある生活の中の陶酔だ。意味などない。だがそれは、若者にとっては重要なアイデンティティーなのだ。


(食事を採ることは構わない。問題はそれを、他人から強要されることだ)


 若者は自己ルールを確認する。自分が自分らしく生きること。それが若者の目指す、幸せの定義に合致する、精神基盤の一つだ。


(ところでなぜ、このメイドは、ぼくを主人と崇め、世話を焼くのか)


 その行動原理についても、若者には理解しがたい。


 使用人として、主人と認定する者の体調管理のため、食事を採らせようとする。その行動に関しては理屈がなくもない。それは若者にも理解しうる範疇の行動だ。


 しかし、そもそもこのメイドが、自分を主人と同等に扱うこと自体が尋常ではない。ぼくの方ではなく、本当の主人の世話をしてろ。若者はそう思い、実際にそう、問うたこともある。まだ、口を開くことの結果を予測できなかったころに。


「主人がともに在ることをお認めになり、もしくは主人に利益をもたらした方であれば、主人と同等にお世話するのは、できるメイドの当然の務めでございます」


 そううやうやしく頭を垂れたメイドは、その直後、若者におせっかいが過ぎる世話を焼いた。もちろん若者だけでなく、少年や二人の女児、あるいは幼年にも分け隔てなく世話を焼いたが、とりわけ反抗的な若者や女児には容赦がなかった。ちなみに少年についても、やや偏屈なところがあったので、強硬手段に出ようとしたが――


「ヤフユはわたしが面倒を見るから、メイちゃんはすっこんでて」


 と、正式な主人に釘を刺されている。おおかた、少年の腕をそうした・・・・本人には、その資格はないと言いたかったのだろう。


 正直、メイド自身にもわずかながら引け目はあった。あのとき、プライベートな時間とはいえ、主人に手を上げた。しかも、大人げなくも『異本』の力まで込めて。それは、少女に触れる前に解除されるはずの力だったが、急に立ちはだかった少年には、少しばかり届いてしまった。こんなはずじゃなかった。何度も後悔したが、時間は戻らない。


 どうしようもできない過去は、未来で贖罪する。だからこうして、メイドは主人と、その友人たちに、鬼となっても奉仕する。


「ヤ」


 もご。と、わずかに声が漏れた程度だった。だが、その隙は、メイドがスプーンを突っ込むには十分に大きい。


 もががごご! 若者は叫ぶ。それは観念してたった一度だけ作った、できるべくしてできた隙。


「ヤフユを呼んでくれ!」


 口元を赤ん坊のように汚したまま、若者は叫んだ。


        *


「と、いうわけで、ニュージーランドに飛んでくれ」


 若者にしては珍しく、額に汗を滲ませていた。焦っているのだろうか?


「……どういうわけか解らないけれど、ニュージーランドということは、『Te waiワイ ma』への視察、といったところかな」


 少年は若者の不可思議な態度には若干の興味を示したようだったが、あえて言及はせず、推論を披露した。


「まあ、そんなところだ。三日後に迎えが来る」


「ふむ……まあ構わないが――」


 脇に佇むメイドに気を向ける。おかしいところは微塵もない。と、いう点が、気にかかった。眼前のこの男を世話するには、面倒が多重に織り込まれているはずだ。だのに涼しい顔でそこに在る。


 メイドがそういう風に若者を見ているなら、若者はそういう風に見られる状況を形作っているということ。つまり、単純に言えば敵意だ。敵とみなした相手に自身を敵と見させないこと。

 少年は若者の意図を汲み取り、溜息を飲み込んだ。


「一人というのは、やや不自由だ」


 少年は諸手を示した。数日前に、まさしく眼前のメイドに潰された両手。

 本来ならそのような弱音を吐かないが、恩人が助けを求めている。少年は自身の心情を曲げてまで、そのように主張した。


「そうか……こちらとしても可能な限りの支援はしたい。ふむ、誰か同行させるか――」


 作ったような気障な態度で顎に手を当てる若者は、その気障を嗜むため、あえて間を空けた。それが命取りだった。


「じゃあ、わたしが着いて行くわ!」


 扉をけたたましく開け、一人の少女が乱入した。


        *


「酷いわよね。こんな状態のヤフユを行かせるなんて」


 少女は言った。確かに若者は酷い人間かもしれないが、その若者にとって、少女は酷い人間なのだった。


「そうだね。だがしかし、彼はわたしに強制はしていないし、わたしは強制されなくとも従うつもりだった。これはいわゆる家族間の信頼だ。仮にそれほど大袈裟なものでないとしても、友人間での会話に他ならない。冗談のようなものだよ」


「そう。つまりわたしは、その冗談に巻き込まれたってことね」


 巻き込まれにきたのはあなたの方だ。という言葉を、少年は飲み込んだ。


 女。というものを少年は知らずに生きてきた。妹達はいる。そういう意味において、少年は女性への耐性が低いというわけではない。しかし、同世代かそれ以上の世代の女性に相対することはほぼなかった。


 だから、目の前の少女や、あのときのメイドが唯一のサンプルだ。こうして少年の脳裏に、歪んだ女性像が形成されていった。

 つまり、面倒だから女には、適当な相槌を打つのが正当だ。と。


「ああ、そうだね」


 少年は笑顔を作って、そう言った。


        *


「それで『Te wai ma』っていうのも『異本』なのよね」


「シロ。何度も言うようだけれど、『Te wai ma』については、まだあなたに話すわけにはいかない。ジンの方針だ」


 解ってるわよ。と、少女は頬を膨らませた。今回の話を受けてからもう一週間近く経過している。その間、少女は幾度とその『異本』らしきものについて問うたが、かたくなに少年は語ろうとしなかった。


「『異本』かどうかくらい教えてくれてもいいじゃない。なにも教えてもらえないと漠然としすぎていて気持ち悪いのよ。まあ、わたしの中ではもうそれは『異本』なのだろうと確信に近い感情を得ているけれど」


「へえ、どうしてそんな確信を?」


「あのジンって人も『先生』とやらの子どもなんでしょ? ハクも、あのホムラっていうおばさんも、『異本』のことしか眼中になく、『異本』のためにしか動かないような人だったから」


「『先生』か……ジンは自分を育ててくれた相手のことをそういう風に呼んだりはしていなかったけれど。まあ、それはいいか」


 とは言いつつ、少年は少しの間、その点について思考しているようだった。間を空けてから、次の言葉を続ける。


「わたしはハクという人も、ホムラという人とも面識がないけれど、おそらく、その二人とジンの『異本』へ対するスタイルはだいぶ違うと思うよ。シロの言葉から推察するに、ハクやホムラは、手当たり次第すべての『異本』を蒐集しているみたいだ。だが、ジンは違う」


「特定の『異本』しか集めていないということ?」


「そうとも言えるが、そもそも、ジンはわざわざ『異本』を集めてなどいない。というのが、もっとも正しい」


 少女はその言葉に疑問を覚えた。が、次の言葉を発する前に、どうやら目的地に到着したらしい。


「さあ、着いたよ。ここに『Te wai ma』がある」


 そう言って少年が示したのは、大自然と共生するニュージーランドと言えど、なおテクノロジーから離れた、小さな藁葺きの家だった。



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