中国編

38th Memory Vol.1(中国/成都/8/2020)


 2020年、八月。中国、四川省、成都。

 歴史が古く、多くの世界遺産を抱えながらも近代化した都市。三国志で有名な三国時代には、蜀の都として栄えた。また、四川省には自然保護区がいくつもあり、世界のパンダの30パーセント以上がこの地域に生息している。その影響か、成都にはパンダを見られる動物園や施設がいくつかあった。激辛で有名な四川料理。自然や歴史。美しい夜景まで、多くの見どころのある観光地だ。


「なんだか騒がしいというか、落ち着きのない雰囲気ね、中国って」


 少女が言った。銀髪緑眼、白い肌。肌を露出した白いワンピース。つばの広い麦わら帽子。そしてミスマッチなオペラグローブ。いつも通りの格好だが、本日はややおとなしい。珍しく控えめに、男のそばを離れないようにくっついて歩いている。


「中国ってひとくくりにしても広大だからな。この辺は観光地だから落ち着きがねえんだろ」


 男が言う。黒いスーツにぼろぼろのコート。ボルサリーノで表情を隠し歩く。だが本日は白いタオルとペットボトルの水を持っている。連れのメイドに持たされたものだ。


 というのも、時期も時期である、あまりに暑いのだ。数日前のキルギスよりか気温は低いはずだが、湿度が高い。そのせいで汗が止まらなかった。案の定、タオルで常に顔を拭きながら歩いている。


「いいかげん服装を見直しなさいよ。見てるこっちが暑くなるわ」


「そうだな。そうしたいのは山々だが、なかなかいい服が見つからなくてな」


 男は疲弊した様子で言った。どうやら着替える気は、ないこともないらしい。


「なによ、女々しいこと言って。服なんてなんでもいいじゃない」


 少女は目についたショップを指さした。男は立ち止まりそちらを見るが、「いや、こんなところで買いたくねえ」とぼやく。相当なこだわりがあるのだろう。少女はそれ以上、服装についてはなにも言わなかった。


「それで、中国にも『異本』があるのよね」


「もちろんだ。中国全土で言うなら、かなりの数があるぜ。……だが、成都にあるのは、俺の知る限り一冊だけだ。『火蠑螈ホォロンヤン监狱ジアンユ』。直訳するなら『サラマンダーの牢獄』ってとこか」


 男は汗を拭い、言った。


        *


『火蠑螈监狱』。


 成都で生まれ育ったある詩人が書き遺した詩集。その内容は異世界――とりわけ『地獄』と呼ばれるような過酷な世界を描写し、現実世界と結びつけ、批評している。「この世界は地獄より地獄らしい」。それは詩集の中で何度も繰り返し使われる表現だ。


 サラマンダー。その一般的な認識は、火の精霊だろう。しかし、古代ヨーロッパでは体温が低いため火の中でも生きられる生物、という認識であった。その認識を引き合いに出して綴られる詩がこの詩集のメインとなっており、作者曰く、「我々はこのサラマンダーのようだ。無限に焼かれながらも、息絶えることができない」と、当時の社会を批判した。


 そんな『火蠑螈监狱』の『異本』としての性能は、やはり火に関するものだった。『火蠑螈监狱』に素肌・・で触れた者は、一年以内に火難に見舞われる。たとえば自宅が火事になったり、火災に巻き込まれたり、ある日突如、人体発火し死亡した例もあるという。だが、前述の通り、発動には素肌・・で触ることが前提だ。手袋をはめて触る等、対策をすれば、さほど恐れることはない。


        *


「いや、普通に怖いのだけれど」


 少女は露出した自身の肩を抱き、男を見た。


「べつにてめえに触らしたりしねえよ。それに、触って、いいこともある」


「なに、いいことって」


「触ったあと、一度火難にあったら、その後一年、火難にあわなくなる」


「一回目で死んだら意味ないわね」


「死ぬとは限らねえからな。それに今回は、回収したらすぐに『図書館』に入れる。そうすりゃ触る機会もなくなるだろ」


 男は言った。目的地にちょうど到着し、入口の朱い門を見上げる。汗をまた、拭う。


 訪れたのは成都市西部にある『杜甫草堂』。中国でも一、二を争う有名な詩人、杜甫が晩年を過ごしたとされる場所。敷地内のほとんどの建物はオリジナルではなく再建されたもので、一部、博物館としての側面も持っている。


 男は再度汗を拭いてから、敷地内に進んだ。少女もはぐれないようにぴったりと並んで着いて行く。


「もしかして『サラマンダー』? 書いたのって、杜甫の弟子だったりするの?」


「そう言われているが確証はないらしい。あと、『火蠑螈监狱』な」


「だって可愛いわたしは解らないんだもの、中国語」


「そういやおまえ連れて中国来るのは初めてか。……ん? もしかして、さっきからやけにおとないしいのは、そのせいか?」


 男が言うと少女は大袈裟なくらい大きく反応した。つい男から距離を空けてしまったがために、そばにいた金髪の観光客とぶつかる。少女はなにも言わず、ぶつかった相手に大きく頭を下げた。


「……いまのやつはヨーロッパ系だったぞ、喋れるだろ」


「うるさいわ。とっさに言葉が出てこなかったの」


 ふん。と少女はそっぽを向いた。男との距離を改めて、少しずつ縮めていく。


「はぐれたら、可愛いわたしは怒るからね、ハク」


「はぐれるのはおまえだろ」


 男は言って、少女の頭を引き寄せた。早くもはぐれそうになった少女の軌道を修正するために。


        *


 男は淀みなく敷地内を進む。美しい庭園や、古式ゆかしい建物。銅像や石碑などには目もくれず。どうやら男はこの場所に何度か来たことがあるらしい。でなければこれほど流暢に歩けないだろう。


 少女はそんな男に引っ付き歩く。その視線は初めて見るものに常々注意を向け、興味を示している様子ではあったが、展示物をゆっくり見られる状況ではなかった。


 だが、一か所。花の小道と呼ばれる、竹林を通る道には、少女は足を止めざるを得なかった。


「すごい、きれい」


 純粋に言葉が漏れた。


 天まで届くような竹林を割る小道。その壁は朱色に染められており、中国に来たことを実感させる。さすがに色褪せているのか、鮮やかな朱色とまでは言えないが、きっとこの色は、中国でなければそうそうお目にかかれないだろう。


「ああ、いいよな、ここは」


 男も言って、立ち止まる。

 わざわざ遠回りをしたかいがあった。少女に聞こえないように、小さく呟く。ここは、男にとってもお気に入りの場所だった。


 特別涼しいわけではないが、男の汗は止まっていた。ペットボトルに口を付け、水を一口飲む。


 それを見て、少女がペットボトルを奪い取る。「可愛いわたしも喉が渇いたわ」。そう言って、男と同じように、口を付けた。


        *


 それからもいくらか歩き、男と少女は、目的地に到着した。

 敷地内に数多ある建物のひとつ、『萬佛楼』。杜甫とはゆかりのない、比較的新しい建物だが、その美しさからか、記念撮影のスポットとして有名である。本来は建物内部に入ることはできないが、今回は特別に関係者に入れてもらうことができた。


「ハクさん、大きくなられましたね」


 気難しげな表情の熟年の女だったが、笑うと愛嬌があり、少女はなんとなくその女への警戒を解いた。


「ああ、あんたは相変わらずだな。まだまだ若いぜ」


 男が他人を褒めるのは珍しい、と少女は思った。褒め言葉だったのかどうかは微妙ではあったが。


「それで、『火蠑螈监狱』なんだが、こないだ話した通りだ、譲ってほしい」


 男は中国に渡る前に、そういう電話をしていた。そもそも女の個人所有ではないので、電話口には返事を聞けなかったが、改めて男は、そう切り出した。


「ええ、お渡しできます」


 女は言う。その言葉に男は安堵した。ちなみに少女は『サラマンダー』の効能を思い出し、少し緊張を増していた。


「ですが」


 と、反語。女は表情を硬くし、言葉を続ける。


「実はこういう文書が送られてきました。つい先日のことです」


 言って、男に封筒を渡した。男が中身を検分するに、その文書にはこう書かれていた。端的に、曰く、『『火蠑螈监狱』を持ち出す者には、災いが降りかかるであろう』と。


        *


 もちろん男は、そんな脅迫まがいの文書一通で『異本』を諦めたりはしない。「ほう」と小さく呟くだけで、迷いなく「問題ない」と告げた。それだけだ。

 スーツのポケットから使い古された黒いグローブを取り出し、しっかと身に着ける。その手で慎重に『火蠑螈监狱』を手に取る。そうして『異本』は、男の持つ『箱庭図書館』の書架に収まった。


「大丈夫なの、本当に」


 少女が言う。慣れない国で気弱になっているのだろうが、わずかに怯えているふうでもある。


「大丈夫だろ、たぶん。それに大丈夫じゃなかろうと、回収しないわけにもいかねえ」


 男はなんでもないように言った。いちおうは警戒しているのか、ボルサリーノの影が落ちた瞳は、やや挙動不審に動いている。


 信号待ちで立ち止まる。その隙に、男は改めて、脅迫状を見た。

 特別に珍しい封筒や紙ではない。内容は印刷されたもので、筆跡などは解らない。宛名は手書きだが、わざと筆跡を隠すように書いている様子だ。そもそも、男は筆跡鑑定などできやしない。


 差出人の住所は成都市内だった。だが、その住所については女がすでに調べていたらしい。断定はできないが、不審なところはないという。おそらく適当な住所をでっち上げて書いたのだろうということだ。


 再度文章を読む。取り立てて気になる文面はない。


 まあ、当分は身辺を警戒するか。そう思って、男は脅迫状を、スーツの内ポケットにしまった。

 信号が変わる。


「あぶねえ!」


 男は少女の肩を掴んで引いた。青信号をただ渡るだけで、車に轢かれそうになる。少女の鼻先を、車が掠めた。麦わら帽子が車道に飛ぶ。

 少女は真顔で目をしばたかせた。


「ハク。これって」


「安心しろ、災いじゃねえ。中国は信号があてにならねえんだ。見ろ、車道に信号がねえ」


 少女が見るに、なるほど、たしかに信号が見当たらない。これじゃ歩行者用信号すら無意味ではないだろうか?


 少女は立ち上がり、お尻を払った。しっかりと左右を確認し、男の手を引いて、麦わら帽子を回収する。


        *


 別行動をとっていたメイドと幼女に合流する。


 ちょうどいい時間だ。男がそう切り出して、料理店に入る。どことなく男が浮かれているように見えた女子一同だった。


 それはどうやら気のせいではなかったらしく、席に通されるなりメニューも見ずに男は注文を済ませてしまった。

 やがて運ばれてくる料理で、男以外の全員に災いが降りかかることになる。


「辛い! 辛すぎるわ! というか痛い!」


「はんはへん、ほへ(なんやねん、これ)!」


「……確かに……これは……けほっ、けほっ!」


 子ども二人は早々にリタイアし、唯一食べられる白米だけを食べていた。


 また、メイドはさすがというべきか、なんとか食べ進めている。だが、この炎天下に汗ひとつかいたのを見たことがない額に、徐々にその滴が浮き出てきていた。


「おまえらのは、かなりマイルドな味付けにしてもらったんだが」


 男は一人だけ涼しい顔で食べている。しかもなぜか汗すらかいていない。その上、男の言葉に驚愕して見比べたところ、確かに男の皿だけ、色合いが特別、どす黒かった。


「ハク! マイルドとかじゃなくて、そもそも辛くない料理はないの!?」


 テーブルを叩き、少女は文句を言った。


「四川に辛くねえ料理なんかねえ。そもそも辛くなきゃ、四川に来た意味もねえ」


 男は残酷に言い放つ。


「にーちゃんの鬼! 変態! ロリコン!」


「ハク様。あなた様の精神と味覚は、すでに正常ではございません。早急に病院へ参りましょう」


「辛い物好きなだけで、ひでえ言われようだな」


 言いつつも、男は久しぶりの四川料理に舌鼓を打ち、満足げだ。


「可愛いわたしは、中国が嫌いだわ」


 少女は力なくテーブルに突っ伏した。



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