36th Memory Vol.2(イタリア/ローマ/7/2020)


 いったん落ち着くため、男と少女は隣の部屋に入った。


「ベッドがひとつね。えっちだわ」


 言いながらもどこか楽しそうに、少女はベッドに飛び乗った。その弾力を確かめるように何度か跳ねて、最終的に寝転がり落ち着く。


「泊まるわけじゃねえんだ、ただ『ジャムラ』から近いだけの、客人用の部屋をあてがっただけだろうよ」


 男は嘆息して、椅子に腰かける。態度悪くテーブルに足を乗せ、体を傾ける。

 横になる方が考え事には向く。と、男は考えている。だが、少女にベッドを奪われたゆえにそうしたのだ。


「思ったのだけど、長い棒でも使って、『存在の消滅』範囲外から本を開けばいいんじゃない? 棒の先端は見えなくなるけれど、根気よく棒で弄くり続ければ、そのうち成功しそうだけれど」


「最終的にはそうするしかねえな。だがあのじいさん、あれで結構な本好きでな。可能な限り粗野に扱いたくねえんだと。……それに万が一、ページの一枚でも破れたら大事だ。俺の『異本』蒐集にすら影響する」


「わたしはあなたの、その潔癖な収集癖にも異を唱えたいわ。776の『異本』すべての蒐集なんて、土台無理な話だと思うけれど。本なんて脆弱な代物、すぐに破れたり擦れたり、燃え尽きたりしちゃうじゃない」


 少女は自身の両手を見ながら、そう言った。天真爛漫、天衣無縫な装いの、唯一華美なオペラグローブを眺めながら。


「そりゃ仕方ねえさ。俺と関わりのないところで、『異本』が失われるのはな。だが、俺が自ら手を下し、『異本』を失わせるわけにはいかねえ。……いや、手を下さないにしても、万事抜かりなく蒐集し、完璧に手を尽くさずに失われたなら、それはもう、俺の罪だ。だから休むことなく次から次に、世界中を巡っている」


「休息も大事よ? 最高のパフォーマンスを発揮するには」


「問題ねえよ。寝るときゃ寝てる」


「訂正するわ。休息も、息抜きも大事」


 男は黙った。ボルサリーノを深くかぶり直し、表情を隠す。


        *


 沈黙は、ノックの音で遮られた。


「失礼致します、お客様」


 そのメイドは表情に乏しかった。というより、この城の使用人はみな、そうである。


「なにかお飲み物などお持ち致しましょうか?」


 声もなんだか機械的だ。いや、せめて事務的というべきか。ともあれ熱量のない声質である。

 男はボルサリーノを少し上げ、少女に目配せする。なんか欲しいなら言え。という表現だった。


「せっかくのイタリアだもの、ワインがいいわ」


 嬉々として答える少女に、男は小さく舌打ちした。


「俺は紅茶でいい」


 男が小さく言う。


「ワインでしたら当家自慢の一本をお持ちしましょう。10年がよろしいかと存じますが、ご希望はございますか? また、お紅茶は――」


「任せる。いまは忙しいから、適当に見繕ってくれ」


 男のぞんざいな言葉にも、やはりメイドは態度を崩さず「かしこまりました」とうやうやしく頭を下げ出て行った。


「……機嫌悪いのね」


「べつに」


 男は素っ気なく答える。男としては機嫌が悪かったわけではなかった。だが、その態度は、他人から見る限り明らかに、機嫌が悪そうだった。


「あのおじいさん、ワインも作っているの?」


「らしいな。裏庭にも小さなブドウ畑があるぜ」


「ふうん」


 少女はベッドから降り、窓の方へ向かった。その方角はブドウ畑のある方向ではなかったが、そのまま少女はしばらく眺めていた。


「もしかして『ジャムラ』をワインの醸造に使っているのかしら」


「昔、試したらしいが、うまくいかなかったと言っていた。おそらくいまではやっていないだろう」


「ふうん」


 素っ気ない応酬だった。無意味に意味を探すため無意味を繰り返すような。

 それは、わたしとあなたが、ここに存在することを確かめる行為。すなわち雑談だ。


        *


「そういえば、これは最初に聞いておくべきことだったわ」


 ワインと紅茶、そしてブルスケッタが運ばれてくるなり、少女はそれにかぶりついた。案の定、リスのように頬を膨らませてから、少女は思い出したように切り出す。


「今回は『存在の消滅』状態になった『ジャムラ呪術書』を、なんとかする。その報酬に『ジャムラ呪術書』をいただける。そういうことでいいのかしら」


「正確には廃品回収みたいなもんだ。あのじいさん、本好きではあるんだが『ジャムラ』についてはそこまで執着なくてな。ただ所有してただけなんだと。そんな折、こんな事態になった。『存在の消滅』状態。もうこれは持ってても害しかねえと悟ったじいさんは、誰かに譲るついでに、問題を解決してもらおうと画策したわけだ」


「もういらないなら、煮るなり焼くなりして消し去ってしまえばよかったんじゃないの」


「だから本好きなんだよ。自分のものじゃなくなるとしても、本をぞんざいに扱いたくねえんだよ、あのじいさん」


「ふうん。……それで、なんでハクに白羽の矢が立ったの?」


 その質問には、男はすぐに答えなかった。

 時間を稼ぐようにブルスケッタをひとつまみ。ただし、紅茶にはまだ、手を付けていない。


「『先生』の友人なんだよ、あのじいさん。昔、『先生』に連れられ世界を巡ったとき、俺も一回会ってて、譲るなら『先生』の後継者にと、考えたらしいな」


 噛み締めるように捻り出す口調で、男は言った。


「ふうん」


 最後のブルスケッタを口の中で転がしながら、少女は息を吐いた。さきほどから何度か見せている、なにかを戸惑うような仕草。


 グラスで二杯目になるワインを飲み干す。少女は生まれて十四年を過ぎた年齢だが、『遺言』の特性により、年齢などすでに超越していた。そもそも、故郷で一度死んでいるも同然だ。その後、違法に登録した戸籍では現在、少女の年齢は二十四歳と記載されている。


「その、『先生』のこと。可愛いわたしが聞いてもいいかしら」


 少女はうつむきながら言った。きっとさきほどまでの、どこか迷っていた態度は、それを言い出すことを躊躇っていたのだろう。


「聞くのは自由だ。それに俺が答えるかは、俺の自由だ。だが、……自由かどうかはともかく、それを聞かれて、俺がどう行動するかは、俺にも解らねえ」


 男はようやくテーブルから足を下ろし、立ち上がった。


「そろそろ行くか。いいかげん『ジャムラ』を回収しねえとな」


 結局、男が紅茶に手を付けることは、一度としてなかった。


        *


 ドアに手をかけた男の後ろから、少女が抱き着いた。


「『先生』って誰? どんな人? ハクとどういう関係なの? 『異本』に関係する人? どうしてハクは『異本』を集めるの? 趣味は? 得意料理は? 休みの日はなにしてるの?」


 男は顔を歪めて振り返る。ボルサリーノを少し、指で押し上げた。


「……おまえ、いまのは暗に『追及するな』って合図だろ。そんな空気も読めねえのか。あと、なんで最後の方、見合いみてえになってんだ」


「じゃあ好みの少女のタイプを聞いておくわ」


「少女限定にすんな。俺はロリコンじゃねえ」


「どうして紅茶に手を付けなかったの?」


「俺はダージリンしか、紅茶は飲まねえ」


「だったら先にそう言えばいいじゃない! なんでもいいとか言わないで、最初から! なのにそれすらしないで、いざ出されたものに手を付けないなんて……失礼だとは思わないの!?」


「待て、おまえはなにに怒ってんだ?」


 男が少女を直視すると、少女は頬を赤らめ、目に涙を浮かべていた。


「ひっく」


 しゃっくりをひとつ。見ると、少女の視線はどこか上の空に泳いでいる。


「……酔ってるのか?」


「られらろろろろれる!」


「いきなりそれはおかしいだろ! さっきまで流暢に話してたじゃねえか!」


 言うと少女はむくれて、男の胸に顔をうずめた。本当か嘘か解らないしゃっくりを繰り返す。

 やがて男は頭を掻き、観念した。


「今日のところは、宿に戻るか」


 やや声高に、男は言った。


        *


「お帰りですか、お客様」


 ドアを開けると、通りがかりのメイドに声をかけられた。

 まだ引っ付いている少女を抱えながら、男はよろよろと歩く。


「こいつが体調悪いみたいでな。明日、出直す」


「では表門まで――いえ、よろしければお宿まで、車でお送り致しますが」


「結構だ。すこし外の空気も吸わせた方がいいだろう」


「さようでございますか」


 言うとメイドはうやうやしく頭を下げた。似た容姿だからすぐに気付けなかったが、そのメイドは訪問時、出迎えてくれたメイドで、さきほどワインと紅茶を運んできたメイドでもあった。

 その姿は他のメイドと同じ、ロング丈のメイド服に、髪型はマーガレット。まさしくメイドを絵に描いたような外見だ。だが、どことなく目の前のメイドだけは威圧感が違う。まだ若いように見えるが、他のメイドより階級が高いメイドなのかもしれない。


「ここには何人メイドがいるんだ?」


 男は立ち止まって言った。


「常時五人は在任しております。メイドだけでなく、執事やコック、運転手など使用人を合計しますと、二十人くらいでしょうか」


 ふうん。男はやや上空に視線を上げ、間を取る。


「今回、あんたが俺たちの面倒を見るように言われているのか?」


「いえ、特別そのようなお達しは受けておりません。……わたくしがお気に召さないようでしたら、今後はお客様のお目汚しにならぬよう、配慮致しますが」


「いや、明日はあんたに、俺たちの世話を頼もう。紅茶はダージリンだ。あと、アルコールは出すな。こいつがねだってもな」


 じゃ、じいさんによろしくな。男は後ろ手に手を振り、去って行った。「かしこまりました」というメイドの声を、背中で受けながら。


        *


 どこか賑々しい雰囲気の宿だった。団体客でも泊まっているのかもしれない。隣からも向かいからも、笑い声が漏れている。

 逆にありがたい。男は思い、ドアを閉めた。


「で、なんだよ」


「それより、大丈夫でしょうね」


「大丈夫だ。なにを案じてんだ」


 少女はベッドに座り、どこかむくれた表情だ。


「あんな監視下じゃ、おちおち作戦も立てられないでしょう?」


「だからってあれはねえだろ。質問攻めや酔った振りで、『いったん帰って作戦を立てよう』なんて、そんな意図は読み取れねえ」


「可愛い少女の表情くらいちゃんと見ててほしいものだわ。そのせいでハクに抱き着くはめになったのよ」


「はめってなんだ。それに腹に文字書かれても解りづれえっての」


「可愛い少女に指先で撫でられたのよ。もっと喜んでほしいものだわ」


「わーい」


 男は感情のない声でそう言った。


「……仕切り直しだ。まあ、じいさんが気に食わねえのは解らねえでもねえ」


「あら、てっきり『先生』の友人は無条件に信じてしまって、盲目しているのかと思ったわ」


「信じているからこそだ。『先生』の友人知人にゃ、善人も悪人もたんまりいるんだよ。そもそも善悪なんて、時と場合によって簡単に覆る。『先生』がいたころは好々爺に見えたもんだが、久しぶりに見ると、腹に一物含んでんな、あのじいさん」


 とはいえ、悪いやつ、とまでは思わなかったが。男は付け足す。


「わたしも悪人だと断ずるつもりはないわ。でも、なんだか嫌な感じがするの」


「まあ、『異本』集めに、慎重になって悪いこたあねえ。小奇麗にやってく気もねえしな。今回はぱっと回収して、こっそりトンズラするか。さしあたっては回収方法だな。いい加減、『存在の消滅』への対抗策を考えねえと」


「そのことだけれど」


 少女は不意に笑顔になって、指を一本立てた。


「回収方法なら、もう解ったわ」


        *


 宿で一休みし、ある程度の対策を練ったあと、男と少女はトラットリアを訪れた。


「むぐむぐむぐむぐ」


「二次元じゃねえんだから、擬音をまき散らしながら食うんじゃねえ」


「そんなことを言っていると、いつか背中を刺されるわよ。可愛い少女の可愛い擬音が聞ける幸福を、噛み締めないなんて」


「あいにくいまは、カルパッチョを噛み締めるのに忙しい。可愛いの押し売りはよそでやってくれ」


 少女は相変わらず頬を限界まで膨らませて食事をしていた。それは十四歳の少女のようだと言えなくもないが、その整い、目を引く容姿の高貴さを思うとミスマッチだ。

 一方、男はほとんど音も立てず、マナーを順守し小奇麗に食べている。こちらもやはり、男の服装や態度などと比べれば、あまりにミスマッチだった。


「それで、明日の流れだが」


 一通り食事を終え、男は口を開く。


「回収はてめえに任せる。で、俺はじいさんを足止めしておけばいいと」


「足止めというか、気付かれないようにしてくれればいいわ。やり方は任せるけれど」


「おまえが『ジャムラ』を回収。だが、最終的には回収できず、また翌日来ると告げ、城を出る。そしてそのまま、飛行機に乗っちまえばいいと」


「そうね。なんだかこの国にいる限り、あのおじいさんの影がちらつくみたいで、安心できないのよね」


 食後にまた、パルミジャーノ・レッジャーノを店主がふるまってくれた。少女は貴腐ワイン、男はヴェネトの重厚な赤ワインと合わせて食べる。

 ううん。と、男がかすかに唸った。チーズとワインのマリアージュを感じているのかもしれなかったが、やがて、口を開く。


「なんだかんだで、あのじいさんが持つ情報網も、あるに越したこたあねえんだが」


 男は目を閉じ、ワインを口許に寄せた。口を付けるでもなく、香りを楽しんでいる。


「情報網といえば、可愛いわたしはずっと気になっていたのだけれど、ハクが持っている『異本』の情報って、どうやって集めているの? 四六時中行動を共にして、あなたが調べ物や、誰かと連絡を取り合っているのって、ほとんど見ないけれど」


 男はその問いにすぐには反応しなかった。ただ変わらずワインの香りを楽しみ、時間を忘れているかのよう。

 そうして一人、自分と対話しているような男を見て、少女は、なんともいえない悲しみを感じ取っていた。


「最初の一歩は、多く『先生』の人脈だ。だが、その先は、これの性能だ」


 男はコートの胸元をわずかに開いた。その行為が指し示すものは、そこに収められている一冊の本、すなわち『箱庭図書館』だった。


「探索機能、とでもいえばいいのか。こいつは持ち主が一度でも見た『異本』を記憶し、その現在地を教えてくれる。だから俺は、仮にすぐ蒐集できるわけでもねえ『異本』だろうと、可能な限りまずは、目にするようにしてんのさ」


「そういえば、バチカン博物館に行くって言ってたかしら。明日、午前中にでも行く?」


「いや、あそこにある『異本』は全部見てる。まあ、一般人が見れる範囲内だが。あそこにゃ一般公開されてない書物が山ほどあるからな。……先が思いやられるぜ」


 男はようやくグラスに口を付けた。大仰に時間をかけた割には、舐める程度にだけ含み、ゆっくりと口内で遊ばせる。そしてやがて、男は喉を動かした。



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