143th Item(スロベニア/ピラン/7/2020)


 2020年七月。スロベニア、プリモルスカ地方、ピラン。

 スロベニアの一大観光地であるその港町の中心を、ある女が颯爽と歩いている。


 その女が群衆の目を引いたのは、燃えるような赤髪を美しく靡かせていたからか、元来のものをチェーンやびょう、バッジなどで荒々しくアレンジした、男物の軍帽をかぶっていたからか、あるいは、モデル並みに抜群のスタイルを開けっ広げな服装でコーティングしていたからか。間違いなくそのすべてであったのだろうが、もしかしたらそんな、攻撃力の高いパーツの中、顔だけがやけに幼く、無垢な少女のようであったことが、もっとも目を引いていたのかもしれない。


 女は布面積の少ない水着の上からコートを引っかけるだけという格好で、タルティーニ広場を進む。姿勢よくヒールを鳴らしながら歩く姿はやはりモデルのようだが、どうしても顔だけが加工されたかのように幼い。彼女のスタイルに目を奪われた広場の男性諸氏の9割が、その顔とのミスマッチに二度見をした。


 広場を抜け、女は町を進んでいく。この町の住人ではないようだが、観光名所に目をくれたりしない。目的がはっきりしているのだろう。やがて女は、ひとつの建物に入った。目的地に着いたのだ。

 どうやら会社である。女は受付で名を告げ、約束がある旨を伝えた。許可はすぐに出た。女はすこし口元をゆるめて、受付をねぎらった。指示されたエレベーターに乗り、約束の相手が待つ部屋へ入る。


        *


「単刀直入に言おう。『マール・ジーン』を譲ってほしい」


 女は勧められた席に着く前に、話を切り出した。相手の返答を待つ間には座り、手足をそれぞれ組む。


「まあ、そうでしょうな。あなたが私を訪ねるなら、そういうお話だとは思いましたよ」


 相対する男は細い目をした柔らかい顔つきだったが、言葉には芯の強さが見え隠れしている。


「言うまでもないが、金は言い値で出そう。この会社の年間純利益はいかほどじゃ? わらわなら、その十倍の金額でも用意できるぞ」


「それはそれは、本一冊をお譲りするには、いささか吹っかけすぎで、恐縮してしまいますな」


 言葉とは裏腹に、男は表情を崩しすらしない。女はそんな相手の態度に、苛立ちはじめる。


「言っておくが、この提案はなれの身を案じてのものじゃ。まだ死にたくはなかろう」


「おお怖い。しかし、問題はそこなのですよ」


 やはり男の態度は揺るがない。声質にも恐怖は感じられない。

 一筋縄ではいかないかもしれない。女はそう思った。


「私もね、こんな物騒な代物、手放したいのは山々なのですよ。その点ではあなたに買い取っていただくのが一番、利がある。しかし現状、あなた以外からも五つ、同じような要望をいただいていましてね。その多くが、裏社会の人間だ」


「つまり、自分以外に渡そうものならどうなっても知らん、などと脅されていると」


「明言はされていませんが、おそらく」


 彼らが手を引いてくれれば、私も安心してあなたにお譲りできるのですが。男は窓から遠くを眺めるようにして、言った。


「そんな暇はない。とにかく、いますぐ決めろ。『ジーン』を渡すか、いまここで死ぬか」


 女は立ち上がり、コートの内ポケットから、赤の装丁の本を取り出す。

 その本が開かれる前に、男が右手を挙げた。ぱちん。と、指を鳴らす。


        *


 六……いや、八人だ。

 まだ背を向けたままの男を守るように二人が立ちはだかり、戦闘態勢の者が四人。そして、女の背後から首元へ刃を突き付け制止する者が二人。


「いかがですか、我が社の誇る警護部隊は。隠密性を追求した黒装束は、ジャパニーズ・ニンジャをモデルにしてみました。ああ、それはあなたの方が詳しいかもしれませんね」


「汝、まだ日本に忍者がいると思っているのか。とうの昔に忍者は絶滅したぞ」


 女は状況を把握し、対策を練る。その時間を稼ぐのに、言葉を紡いだ。


「……マジか」


 男はじっくりと間を溜め、女に振り向いた。その眼は大きく見開かれ、額には汗が浮いている。


「……マジじゃ。というか、汝が感情を乱すのはその点なのか」


 呆れながらも、女は思考を止めない。ボスの感情を乱そうとも、まだ劣勢なのは女の方だ。

 忍者をモデルとした警護部隊。確かに、やつらはいきなり現れた。部屋を見渡しても、隠れられそうな死角など、ほとんどないにも関わらず、だ。

 後ろの二人は、解らなくもない。女の背後には、すぐドアがある。そこから音もなく侵入するのはそう難しくもないだろう。だが、他の六人は? もし本当に、漫画やアニメのような人を超えるような術を身に着けた者なら、その手の内を見るまで動くのは得策ではない。


「と、ともかく。命まで取ろうとは思いません。申し訳ないが、出直していただきたい。私の身の安全が確保できる状況を作ってくだされば、私だって『異本』を渡すのにやぶさかではありませんから」


 場合によってはそれも致し方ない。女はそう思った。だが、それは性に合わない。

 そう思ったとき、目端に違和感を見つけた。


        *


「解った。出直そう」


 女は言った。首元の刃に触れ、わずかに押し返す。


「賢明です。……おい、建物の外までご案内して差し上げろ」


 男が言うと、女の後ろにいた二人が、女を促す。首元からは刃を引いたが、背中にまだ、突き付けられている感触がある。

 女は開け放されたドアの前に立ち、コートのポケットから、なにかを取り出した。右手の人差し指と中指ではさみ、その紙を持ち上げる。


「汝は、この『異本』の効能を知っていたかのう」


「……さあ、お噂は耳に入ってきますが、どうにも要領を得ないので、正直に申し上げるなら、なにも解ってないと言っていいでしょう」


「そうじゃろうな。これは噂だけで推し量ると、余計に混乱する代物じゃ。それに、金がかかる。……だから、これを使うんじゃ。知っておるか? イラン・リヤル」


 女はポケットから取り出した紙をひらひらと靡かせた。


「イランの……紙幣ですか。私も商人として長くやっていますが、その紙幣は見たことがない」


「現状、世界で最も価値の低い法定通貨じゃ。100イラン・リヤル紙幣。こいつは紙幣しか食わんのでな」


 言って、女はにやりと笑った。

 男がなにかを言いかける。だが、それより早く、女は紙幣を、その『異本』の一ページに挟み込む。


「『嵐雲らんうん』。一分」


 女が言った。


        *


 その風。女の真後ろの二人には抗いようがなかった。せめてもの救いは、窓にぶつかりながらも、その窓が割れなかったこと。しかし、体をぶつけたはずみで気を失った。

 残りの六人――いや、男を含めれば七人は、強風に舞う資料の束や観葉植物の葉などに、目を細め、腕で顔を、反射的に庇った。非常時に視界を遮ったことを理解し、六人の警護部隊は瞬時に、ガードを解く。

 だが、一瞬あれば、人間は消える。


「『ベルフェゴールの歯車』。十五分」


 コートのポケットから乱雑に鷲掴み、ごみを捨てるように『異本』に食わせる。

 それから、まず、向かって右手の警護者二人に触れる。そのまま、反時計回りに、男の盾となる二人、そして、左手の二人にも、女は自身の持つ『異本』で触れていった。

 触れられた警護部隊の者は、みな、動きを止める。いや、正確には、動きを抑制される・・・・・。端的に言うならスローモーションになっていた。


「『新たなる静寂の鏡』。一分」


 女はゆっくりと、『異本』に紙幣を押し込み、そのまま右手を肘まで入れ込む。次に出てきた女の腕には、抜身の刀が握られていた。

 吹き荒れる暴風が、ようやく、止む。


「1700イラン・リヤルか、……だいぶ安く済んだ」


 男の首元に刃を突き付け、言った。


「ま、待て。……私を殺せば、『ジーン』は焼却される。これを見ろ」


 男は右手の袖をめくり、腕時計を見せつける。


「これは私の心拍を測り、定期的にある場所へ送信している。私の心臓が止まったとき、自動で『ジーン』を焼却するように――ああぁぁ!!」


 刃が振り下ろされる。左袈裟切り。血飛沫が弾け、女の幼い顔に降りかかる。その表情は感情の高ぶりからか、犬歯をむき出し笑っていた。


「『ミジャリン医師の手記』。十分。……2700イラン・リヤルになったぞ。まだ妾に金を使わせる気か?」


 倒れた男に馬乗りになり、女は『異本』を押し付けた。

 相手は痛みに錯乱する。裏社会に長く浸かってきた経験から、男はなんとなく理解した。


「痛覚の、増幅か?」


「正解じゃ。まあ、痛覚増強はこの『異本』の、性能の四分の一にすぎんが」


 男は強く目を瞑り、歯を食いしばっていたが、やがて、力を抜いた。


「……解りました。『ジーン』をお譲りします」


        *


 女はその場の全員にかかった『異本』の効果を解いた。が、その前にもう一度『異本』に紙幣を差し込んでいたので、裏切られたときの対策はしてあるのだろう。


「こちらです。お納めください」


 差し出された本を検分する。間違いがないことを確認すると、女は犬歯をむき出し、笑った。


「たしかに。……代金は適当に振り込んでおく」


「え?」


「なんじゃ? よもや妾が強盗にでも見えるのか」


「いやしかし、あんなことになりましたから、諦めていました」


 男は自身の左胸に手を当て、まだすこし怯えていた。さきほどの傷は、もう塞がっているというのに。


「妾への不敬は、『ジーン』を譲ってもらう権利で帳消しじゃ。妾の汝らへの攻撃も、傷を塞いだことでチャラじゃ」


 それでチャラになるのはおかしい。男は思ったが、さすがに言えなかった。


「ならば、金は払うのが筋じゃろう。さすがにいまさら、言い値とは虫が良すぎるから、相応の金額を見繕う。文句は言うまいな」


「そりゃあもちろん。……ありがとうございます」


 とはいえ、これから他の者たちに狙われるとなると、男は生きた心地がしなかった。だが、金が入るならなんとか、用心棒でも雇って対策できるかもしれない。

 女はそんな相手を見、すこし考え込む。腕を組み、息を吐く。


「ところで、どのタイミングで、実力行使する決意を固めたのですか? 私の見たところ、あなたは途中まで、本当に一時撤退をするつもりでいたはずです」


「ああ、……忍者をモデルにしたと言ったな。そして、あやつらは汝の合図で、急に現れた。じゃから妾は、あやつらが超人的な身体能力や、なんらかの特殊能力を持つ者ではないかと警戒した」


「あの登場方法も、敵の戦意を削ぐ、ひとつの戦略ですからね」


「そう。本当にそんな超人の集まりなら分が悪い。じゃが、そうじゃないと確信できれば、十分対処できると思ったのじゃ。具体的には、あの登場の謎を解けば、妾は安心できた」


「なるほど。お気付きだったんですね。隠し扉の存在」


 女は口元を少し緩ませ、ふふ、と声を出した。


「これ見よがしに腕を上げ、指を鳴らす。その動作に目を引き付け、隠し扉から素早く登場。あの緊迫した場面なら、瞬間にあやつらが現れたと錯覚もしよう。……面白い手だったが、壁に薄く、切れ目が見えたぞ」


「あれでも極力目立たないように細工してあるのですが。お見それしました」


 相手はまたも深々と頭を下げた。あまりに格上の力の前には、どんな金持ちも権力者も無力だ。

 そんな姿を見て、女はなんだかいたたまれなくなった。


「そうじゃそうじゃ。これは今回の件とはまったく関係がないから、妾からの純粋なお願いなのじゃが」


「はい?」


「船を貸してくれんか? というか出してくれんか? ちょっと行きたいところがある」


「まあ、それくらいでしたら」


「助かる」


 女はまだすこし、考え込む。しかしやがて、大きくため息を吐き、口を開いた。


「運賃は、そうじゃな。……有能なボディーガードを何人か紹介してやろう。総合性能B以上の『異本』の『適応者』じゃ。そんじょそこらの裏者など相手にもならんだろうよ」


 その言葉に、男は目を見開いた。もはや声すら出せずに、ただ首を垂れる。


「じゃ、船は任せたぞ」


 女は軽く手を振って、颯爽と帰って行った。

 夕日がピランの町を、美しく焼いている。影が長く伸びる。



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