ローマ編

36th Memory Vol.1(イタリア/ローマ/7/2020)


 2020年、七月。イタリア、ローマ。

 数多くある観光地のどこからも外れた、住宅街の隅。看板も掲げていない小さなトラットリア。


 内装もただの一般住居のようだ。凝った照明やレトロな家具は見受けられるが、全体的には『田舎の親戚の家』という装い。唯一目を見張るのはキッチンの設備だろう。むしろ田舎の落ち着いた雰囲気を壊すかのような最先端のシステムキッチン。ずらりと並ぶ食材に調味料、アルコール類に調理器具。そしてなにより、せいぜい十人も収容すれば満席のトラットリアに似つかわしくないほどの大きな冷蔵庫。数えたところ、業務用にしても最大サイズではないかと思われるそれが、六台も並んでいる。どう考えてもこの店の営業のみに使われる容量ではない。

 店主しかいないそのトラットリアに、男と少女は訪れていた。男が店主と話している間、少女はひとつの席に座り、興奮した様子で目を見開いた。


「お、おいしい!」


 吐き出してしまいかねない勢いで、しかしそれをこらえつつ、だがそれでも言葉にせずにはいられなかった様子で、少女は叫んだ。

 それを聞いて、男と店主は言葉を止め、少女に目を向ける。


「最高級のパルミジャーノ・レッジャーノだ。まずいわけがねえ」


 男が言う。

 ローマに着いたその足で男が向かったのは銀行だった。滞在中の資金を工面するのだと思われたが、男が銀行から持ち出してきたのは巨大なチーズ。イタリアにはチーズを担保にできる銀行がいくつかある、と男は言った。


「今回のローマ滞在は、この1ホイールで乗り切るからな。おまえが食えるのは今日だけだ」


「じゃあ今日中に全部いただくわ」


 口元をおさえて、上品に食べてはいたが、地についていない足はぶらぶらと忙しなく、言葉と同様、浮ついていた。


「ははは、全部は困るけど、お嬢ちゃん可愛いから、もう少し出してあげよう」


 店主が言う。イタリア人にしては控えめで、ゆえに気障にも映る所作の男だった。


「じゃあまあ、それで滞在中の食事は頼む」


「ええ、宿の方にも話は通してあります」


 どうやら男は滞在中の宿と食事を、あのチーズひとつでまかなったらしい。


        *


 七月のローマ。日差しは強いが低湿で、カラリと晴れた日が多い。まるで快活な住人の性格を表現したような清々しい暑さだ。


「うふふ。ローマ♪ ローマ♪」


 チーズのおかげなのか、やけに気分よく、少女が先行する。なぜだか解らないが、つばの広い麦わら帽子をかぶっている。ローマでは割と浮くアクセサリーだ。


「おい、勝手に先に行くな」


 男は忌々しげに空を仰ぐ。暑さには慣れている。だが、慣れようが暑い事実は変わらない。


「遅いのよ、ハク。可愛いわたしが待ちくたびれるわ」


「ガキかてめえ。気分で先に行ったり、後ろでくたびれたりするんじゃねえ」


「ここが永遠の都ローマなのね。……確かに、人が多くて活気があって、華やかなはずなのに、どこかもの淋しいわね」


「感慨にふけるんじゃねえ。観光に来たわけじゃねえんだ」


 子供みたいに立ち止まった少女の頭を、男は、麦わら帽子の上から軽く叩いた。痛くはなかったはずだが、少女はすこしむくれる。


「それで、今度はどこにあるの? まさかとは思うけれど、バチカン博物館じゃないわよね」


「ああ、あそこには少なくとも、七冊の『異本』が収められている。個人の所有を除けば、一か所にこれだけ多くの『異本』が集っている場所もそう多くはない。……いつかは入るが、いまは無理だ」


 まあ、今回も見るだけは見ておくか。と、男は小さく付け加えた。


「今回も個人だ。世界有数の観光都市ローマの一等地に居を構える、ロシアの資産家。ぶっちゃけ、ちょっとした博物館以上に、攻略難易度は高い」


 そう言って、男は見上げる。人波に逆らうように立ち止まり、城と形容すべき外観の、その邸宅を。


        *


 うやうやしい老執事に迎えられ、男と少女は、その門をくぐった。

 左右に、すでに観光地のように美しく整えられた庭園を眺め、邸宅に侵入する。


「……ねえ、ハク」


「どうした?」


 まず、入ると大広間。むかえるのは三人のメイド。大理石の床にレッドカーペット。その奥に、大階段がそびえたっている。

 もしやそのまま地に付くのではないかと思うほど深く頭を垂れ、扉を開く二人のメイド。残る一人はさきほどの老執事と同様、うやうやしく一礼し、男と少女をいざなった。


「攻略難易度ってなんだっけ?」


「なんの話だ?」


「いや、普通にもう、お城の中なんだけど」


「ああ、そうだな」


 決して成金趣味ではない、整った広間の中央に、奥の大階段を背負って、一人の老人が立っている。皺くちゃにつぶれた人相は、悠久の時を超えた強さと、すべてを赦す優しさを兼ね備えていた。


「これはこれは、ハク様。お待ちしておりました」


「やめてくれよ、じいさん。今回、世話になるのは俺たちだぜ」


 おそらく、この邸宅の主である老人は、曲がっていない腰を曲げて、使用人のように一礼した。それを男が制止すると、老人はいたずらっ子のように笑った。


「いや、ずいぶん立派になられて。どこの侯爵様かと思いましたぞ」


「こんな汚え侯爵がいるかよ。じいさんも息災のようで、なによりだ」


 旧知のように気さくに話す。いや、実際旧知ではあるのだろう。だが、男が老人に向ける視線は、言葉とは違いわずかに警戒していて、老人から男への視線は、焦点が合わず、どこか上の空だ。


「おや。こちらの麗しい女性は?」


 再会の喜びを、互いにどこか、うわべで済ませた後、老人は男の後ろにいる少女に目を向けた。


「ノラよ。ノラ・ヴィートエントゥーセン」


 少女は小さく頭を下げた。礼儀として、帽子くらいは脱ぐべきかとも思ったが、連れの男がかぶりっぱなしだったので、それに倣った。十四歳の姿なら、咎められることもないだろう。


「ほう」


 と、老人は息をつくと、皺の中から瞳を覗かせた。くすんだ青の瞳。数々の困難――大袈裟に言うなら死地を越えてきた、そう思わせるだけの光が、わずかに感じられる。


「よくおいでくださった。可愛らしいお嬢さん」


 少女はなんとなく、いやだな、と感じた。それはバケツ一杯の水に、白のインクを一滴垂らす程度のわずかな淀みだったが、少女はこの地を離れるまで、ずっとその感覚を忘れられなかった。


「あー、それで、じいさん」


 男が声をかけると、老人は瞳を皺に隠し、男に向き直った。


「『ジャムラ呪術書』の件だ」


 男は言った。


        *


『ジャムラ呪術書』。

 数々の呪いの術――文字通り呪術が収められた『異本』。あるミステリ作家が、作中のアイテムとして用いたものだが、その内容を件の作家が個人的に、設定資料として記したものらしい。

 内容は出鱈目だ。古来存在する、多くの正当性のある・・・・・・呪術書とは形式が違い、おそらく作者が適当に書いたものだと思われる。事実、『ジャムラ呪術書』に『呪術書』としての性能はない。


『ジャムラ呪術書』は呪いをおよぼすアイテムではなく、呪いをもたらすアイテムだ。

『異本』の性能・分類として表現するなら、常時発動系と呼ばれるもので、本を開いたり手に取ったりするまでもなく、そこに在るだけで『異本』としての効能が顕れる。

 所有者、あるいはその保管所周辺に、災いをもたらす『異本』。といっても、『ジャムラ呪術書』が人命を奪ったり、土地を枯らした等の事実はない。この『異本』の性能は、それほどに強くはない、が、それ以上に厄介だ。


『ジャムラ呪術書』は腐敗を進行させる効能を持つ。だが前述の通り、それで死人が出たという記録はない。『ジャムラ呪術書』の腐敗効能は、かなり弱いのだ。『異本』の性能を表現する場合に使われるランク付けで言うなら、その効能強度は五段階評価の四番目、Dランクでしかない。


 では、『ジャムラ呪術書』はなにが厄介なのか? それは腐敗進行という効能のほか、自己防衛機能ともいうべき特性が別に、この『異本』には備わっている点だ。

『ジャムラ呪術書』には、閉じられている限り発動する・・・・・・・・・・・・・自己防衛機能が備わっている。それは『存在の消滅』と呼ばれる、外部認識操作。『ジャムラ呪術書』は閉じられている限り、誰にも見えないし、触っても感じられず、匂いも味もしない。


        *


「――ゆえに、『ジャムラ呪術書』は必ずページを開いた状態で保管しとくもんだ。いっぺん『存在の消滅』状態になると、そう簡単にページを開けなくなる」


 大階段を登り右手へと進んでいく。その道すがら、今回のターゲットについての情報を少女は把握する。


「いや、まことにお恥ずかしい限りですが、ついうっかり、『ジャムラ』を棚から落としてしまいましてな。そのはずみでページが閉じられてしまったのですよ」


「だからケースに入れるなり、ページを開いた状態で固定するなりしろって言ったんだ。……『先生』が」


「いやはや、返す言葉もありませんな。しかし本は、厳重に飾るものではありませんから。どれだけ価値があろうと、本はいつでも気軽に手に取り、ページを繰れるものでなければ」


 返す言葉もない。と、言いつつ、悪いとも思っていない態度で老人は語る。「まあ、本の扱いは個人の自由だがな」と男は言った。「ところで」と老人。


「『異本』蒐集は順調ですかな。憂月うづきの悲願は達成されそうですか?」


 男は、老人に向けていない方の左顔面を、ぴくりとわずかに引き攣らせた。


「いや、まだまだだ。半数にも満たねえよ。……あれから、まだ数年だぜ?」


 それは平常より高く、速い言葉の使い方だと、彼らの後ろからついていく少女には感ぜられた。


「そうですか。……まあ、半数を超えてからが正念場でしょうからな。入手難易度の高いものには、国家や星を揺るがす強力なものもありますから」


 お。と、老人はすこし、歩くペースを落とし、指をさした。


「あの部屋です。『ジャムラ』を落とした部屋は」


        *


 扉を開けた瞬間に、『ジャムラ』の在り処は解った。


 部屋自体は、豪奢な建物に似合わない寂れた装いだった。わずかに埃もかぶり、蜘蛛の巣まで引いている。いちおうは書庫、なのだろうか? それもこの規模の建物にしては小規模なので、ただ単に倉庫のように使っている部屋に、いくらか本も置いているといったところだろう。

 本棚が左右の壁に並び、奥には小さな窓がひとつ。部屋の中央には大きめのテーブル。いくつか散乱する椅子。

 その椅子のひとつの足元に、真夏の太陽を見るような空白があった。太陽といっても眩しくはない。だが、この世界のどこでも見られないような真っ白な空間が、そこには開いていた。


「あれが『存在の消滅』だ。閉じられた『ジャムラ』の周辺は、『ジャムラ』に近ければ近いほど、その存在を認識できなくなる。だから普通に見るとあんな風に、白く見える」


 男は少女をちらりと一瞥し、解説した。


「ええ、見ただけで理解できるわ。だけれど、その効能のおかげで、『ジャムラ』がどこにあるかはむしろ特定しやすい。だったら見えなくても、拾い上げて、本を開けばいいんじゃないの?」


「やってみりゃ解るさ。つっても、無知のままやらねえ方がいいがな」


「どういうこと?」


「見ての通り、『存在の消滅』は『ジャムラ』周辺、直径約一メートル範囲内を完全に消し去る。だが、それより広範囲に関しても、まだわずかに効力が及んでいる。だいたい直径五メートル範囲内くらいに近付けば実感できるだろう。徐々に自分が消えていく感覚がな」


「ほんとだわ!」


 少女は部屋に入って、そう言った。


「話を聞けよ! とっとと戻れ!」


 男が言うと、少女はすこしむくれて、引き返してくる。


「いまのは五メートル範囲内にぎりぎり足を踏み入れたくらいでしょうが、それ以上近付くと、自分が消える感覚がさらに大きくなり、一メートル範囲内で完全に消滅。そうして消えた自分を認識すると――いや、認識はできないのですが、普通は頭がおかしくなり発狂する。……お嬢ちゃん。お転婆はほどほどにしなきゃいけませんぞ」


 老人が言った。


「さて、これ以上、この老いぼれにできることはないでしょうから、ここはお二人にお任せしましょう。隣の部屋を準備させていただいたので、休息にお使いください」


 老人は隣の部屋を指さし、どこかへ行った。その姿が見えなくなるまで、少女はなぜか警戒し、じっと見つめていた。



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