短編「きみの声で呼んで」
朶稲 晴
創作小話【きみの声で呼んで】
【きみの声で呼んで】
エリカ、ねぇエリカ。
ヒースの咲いたあの家の庭を、きみは覚えているだろうか。庭一面に植えられたヒースの花が、むせかえるような香りであたりを満たしていたのを。
どこにでもある、普通の庭だった。父が夢見た庭付き一戸建ての家、グレーの外観にヒースの白い花が雪のように咲いていた。
天気のいい休みの日なんかは母のコレクションのティーセットを勝手に持ち出して英国のアフターヌーンティー(英国も何も、ぼくらはアフターヌーンティーをよく知らなかったけど)を真似たね。茶葉はいつもダージリンだった。それしか家になかったっていうのもあったけど、ぼくはきっと違う茶葉の紅茶を出されても、きみと飲むのならなんだってよかったのかもしれない。菓子棚からスコーンやクッキーを拝借して庭の隅で繰り広げる貴族ごっこは、ぼくの大切な思い出だ。
『ねぇハイデ。今から私はお姫様ね。』
「わかったよエリカ。それで?お姫様は何をお望み?」
『わたしの手を握って。』
「うん。それから?」
『そのままでいて。』
「それだけ?」
『そのままでいて……ずっと。』
そしてその秘密の時間はまどろみに熔けてあいまいになるまで続いた。
ああ穏やかな空。さわやかな風も、ぴちちと無く小鳥も、乾いた土も。ブルーローズのティーカップ。安物のダージリンティー。喉に張り付くスコーンのくず。つないだ手の体温。きみの吐く小さな言葉。ああ全部、あの家の庭に。
エリカ。ああエリカ。
その手を、覚えている。はじめてきみの左手を握ったその時から変わらない手を。華奢でまるで香り立ちそうな、その手を。
きみはことあるごとにぼくに「手を握って」と言ったね。その真意は測りかねるけど、それでも僕はその言葉が嬉しかった。
あたたかい、何の苦労も知らない手。そらそうだろう。きみに負担になることは、全部ぼくがやった。洗い物も、針仕事も、土いじりも。全部。きみのしろくつるんとした手とは反対にぼくの手は指先がかさついていて皮膚が分厚くなっていた。そんな不格好な手を握って、きみは言った。
『わたしの手。』
「そうだ。これはきみの手だよエリカ。」
『うれしい。』
「きみの好きなように使っていいんだよ。」
『わたしの手を握って。』
「こう?」
『そう。反対の手は……』
「エリカの頭を撫ぜればいいんだろう?」
『ふふ。』
「満足?」
『ええ。とても……。』
愛しい、愛しい、最愛の時間。右手から伝わるエリカ、きみの体温も。絹のような、手入れの行き届いた上質な糸のような髪の感触も。すべてがぼくにとって大切なものだった。
きみの手を握ってもう一方の手で頭を撫ぜている間は、自分のみじめさもみにくさも、忘れられた。きみの存在自体が、ぼくにとっての救いだったんだ。
エリカ、ねぇエリカ。
ぼくの声が届いている?聞こえたら返事をしてよ。その可愛らしい声で、小鳥のような軽やかな声で。
きみが呼ぶぼくの名が好きだった。
「エリカ。」
いつでも、どんなことでも、こたえたくなった。
「エリカ。」
だからそれが失われるとわかったとき、底のない黒々とした大穴を覗き込むようだった。
もう一度。あまやかな時間を、花のような笑みを、幸せなひとときを。もう一度。
もう一度?一度といわず、二度でも三度でも。百度だって億万回だってぼくは飽きないだろう。あれだけ呪った合わせ鏡の無間地獄のような日々だって、君がいれば。過ぎ去る一陣の風のような一瞬だって、きみがいれば。
きみさえいれば。エリカ。
「ハイデ。」
「……エリカ!」
短編「きみの声で呼んで」 朶稲 晴 @Kahamame
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