そうだ、温泉へ行こう
清泪(せいな)
気軽に誘うもんじゃない
一昔前なら出遅れ扱いされた三十半ばにして久しぶりに出来た彼氏と私は温泉旅行に来ていた。正月休みと春休みに挟まれたこの時期は決算月を前にして仕事は割と忙しいのだけど、どうにか有給を獲得して日頃の疲れを労いに訪れた。
海外旅行とか国内でも人気の観光地とか、そういうのは旅行前後でどっと疲れが来てしまうからついつい避けてしまうのが年齢というものだろうか。元々私がそんなに旅行好きというわけでもないというのもあるのだけれど。
そんなわけで近場の温泉旅館へと辿り着いた。行きも帰りも寝てしまっても構わないと、電車移動を選んだのは正解であり失敗だった。確かに寝れたものの、寝過ごさないよう気を張る必要もあったので中途半端な睡眠となって、逆に疲れが増えたようだ。
訪れたこじんまりした旅館にも気分が乗るわけでもなく私も彼氏も静かなものだった。
とりあえずの目的としてただただ温泉旅行として選び、近くですぐ予約の取れる安い所を選んだのでこの旅館周辺を何も調べてなかった。観光気分ではなかったが、だからといって旅館に引きこもるのも勿体ないとスマホを取り出して検索する。
それっぽい山とかそれっぽい神社とかそれっぽい滝とか。まぁ来たんだし見ていくか、ぐらいの観光地が表示される。どれも市内記事というのが何とも言い難い。
何処でもいいか。
二人きりになれるなら。二人きりで話し合えるなら何処でもいいか。
日常から隔離された時間の中で、私は彼にあることを告白したかった。告白しなければならなかった。
何処にしようかと彼に問うと、最近運動不足だからと山と返ってきた。私はそこは無いと思っていたのだけど、表情に出さず頷いた。
温泉旅行に来たのだからもちろんのことながらハイキング準備なんてしていなかったし、運動靴でもなかった。まだ寒い気温の中で山登りなど気が知れないと思ったが、そこは観光地。舗装された坂道を歩くだけの散歩レベルだった。
登り坂と言われればそうかもしれないと思えるぐらいの緩やかな道を、三十分ほど歩く。前を歩く彼氏が何度か振り返り私を見るが流石にこれぐらいでは息が切れたりしなかった。彼氏が前を歩くのは単なる歩幅の違いだ。もしくは山登りに対する気持ちの違いかもしれない。
三十分ほど歩いて着いた場所は見晴らしの良い所だった。ベンチとか自販機、コイン式の望遠鏡があったりと自然を味わうという意味では残念な場所ではあるが、街の全体を見渡せる景色としては良い場所である。
惜しむらくは、私は今日始めてこの街に来たので何の感慨も持ってなくて、昼食前の腹すかしと来てしまったので夜景の綺麗さとも真逆なので感動要素が無かったことぐらいか。
しかし、こんな寒い昼前にこんなところに訪れる客も住民もいないらしく、願った二人きりという状況にはなれた。
これは、告白のタイミングだ。
来て早々という感じもあるけれど、私の告白を聞いての彼氏の態度はこの先二人にとってとても肝心なことなので早々に済ませる必要がある。
むしろ、今告白することさえ遅すぎるぐらいだ。
私には、夫と二人の子供がいる。結婚してもう十五年だ。長男は中学生だし、長女は小学校高学年だ。
夫がなかなか売れない作家なもので、私が結婚前から勤めていた仕事を継続している。高校卒業後運良く作家デビュー出来た夫は、しかし大ヒットには恵まれず一人で食べてくには何とかなるものの家族となると話は別だった。私は夫のいつかの大ヒットを信じていたので、それまではと高校卒業後夫を支えるために就職して、今に至るわけだ。
会社勤めも長くなるとそれなりの役職に就くことになって、否応にも仕事が生活の軸になった。仕事に時間を割く必要がどんどんと増えていき、夫とは今は子供を育てるための協力者という関係性だ。そこに恋だ愛だなどという色めくものは無くなったし、家族だと誇るほどの感情も無くなった。家族というのは、何かをするための口実として口にするだけになった。
そんな中でキャリアアップだとかで会社から参加を命じられたセミナーで彼と出会った。一回り離れた若者は、しかしながら同じセミナーを受けるという意味ではやり手なのだと感じさせた。仕事の話では年の差を感じさせないのに、その他の話になると弟みたいな無邪気さを持ってるそのギャップにやられてしまった。
出会った時、もう理由すら忘れてしまったけれど私は結婚指輪を外していた。夫とは喧嘩すらしなくなったので、多分気紛れだったのだろう。それが良くなかった。
彼は私を独身と勘違いしてアピールしてくるようになった。私は当初罪悪感にはぐらかしていたが、馬鹿なくらいすぐにはぐらかすのを諦めた。好きになったのだ、どうしようもなく。
それから半年があっという間過ぎ去って、私は夫にも彼にも秘密を作りながら付き合いを続けこの場所に立っている。
正直、このままではいけない、などと思ってはいない。このまま彼との関係を続けたいというのが本音で、子供達のことを考えると夫と別れる気も無い。自分勝手だ。
だけれど、ちゃんと話しておくべきだとも思っている。彼も家族も大事であるから、私の勝手のまま関係が続くのは間違ってるとも思う。
その為の今日、その為の温泉旅行、その為の告白なのだ。
平日の動きもない街並みを見下ろし、鳥の声と風の音が聞こえる中私は深呼吸をする。まるで登山を楽しむかのような振る舞いで笑ってしまいそうになるが、ゆっくりと息を吸い込む。
「あのさ、話したいことがあるんだよね──」
吐き出そうとした言葉が一言一句間違うことなく彼の声として耳に入ってくる。驚きに彼の顔を凝視する。
「ずっと言わなきゃって思ってたんだけど・・・・・・本当にごめん、いや、ごめんなさい。オレ、実は結婚してるんだ!」
鏡があるのだろうか?
はたまた夢なのだろうか?
私が言おうとした言葉が彼の口から発せられる。謝り方すら、真似ているぐらい考えていた事と同じだ。
「とんでもないぐらい酷いことをしてるのはわかってる。いくらでも謝る。でも、オレが君の事を愛してるのは本当なんだ──」
彼が私の返答を待たずして捲し立てる。秘密をぶちまけて自身の否定と肯定を行う。きっと、自分もこんな感じになっていたのだろうか。
なんだろう、酷く醜い。
鳥の囀り、風の音、彼の声。音がどんどんと遠くなり冷たい気温に晒された私の身体は心と共に冷めていく。
出張と夫に嘘をついた手前、日帰りになることをどう理由つけるか私はそればかり考えていた。
そうだ、温泉へ行こう 清泪(せいな) @seina35
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