第58話 「お望みのままに、女王様」

かすかに、舘林椿たてばやしつばきのあごが上がった。それだけのことで、ごく平凡な椿の表情が一変する。

他の人には絶対に分からない小さな変化。

それは椿が飯塚いいづかの前で、女王様に変身する瞬間にだけ見せる、傲慢な角度だ。


その瞳の奥に、飯塚慎二は酩酊めいていするような色を見る。

椿の足元にひれ伏す愉悦の色。

痛みと侮蔑と哀願の果てに、一滴だけ与えられる甘美な色。

飯塚慎二を苦しませ、歓ばせ、この世の何もかもを捨ててもいいと思わせるほどの衝動が、椿の瞳の奥にある。


椿の瞳の奥にしか、ない。


椿は、自分に向かって差し出されたピンク色のカクテルをじっと眺めた。

それからゆっくりとテーブルの下で足を組み、さりげなく、誰にもわからないようにさりげなく、ひざまずいた飯塚のももの上にヒールを乗せて、軽く踏みつけた。


椿の体重が飯塚の脚の食い込んだ瞬間、飯塚は甘美な痛みに反応して、手にしたシルバー盆を揺らしてしまった。

きらりと椿の目が光る。

それから、椿は飯塚のごと、ピンクのカクテルグラスを手に取った。


椿の小さな唇が愛らしいカクテルを一気に飲み干し、小さなダイヤの指輪を口の中に含みこむ。

そのまま、指輪をしゃぶる。

くい、とわずかな角度で上がった顎と、椿の冷たい視線が飯塚に向けられた。

飯塚は何も言われないうちに、すばやくサテンのベストポケットからシルクチーフを取り出し、手のひらの上で広げた。

そしてうやうやしく椿の前に差し出す。


ほろっと、椿の唇から氷のようなダイヤモンドの指輪が飯塚の手のひらに向かって落ちてゆく。

指輪が落ちきるまでの一秒にも足りない時間のあいだに、椿は飯塚に向かって、しとやかな仕草しぐさで左手をさしだした。


飯塚はセクシャルな痛みにふるえたまま、小さな椿の薬指に、シルクチーフから取り上げたダイヤの指輪をすべり込ませる。

きゅっと、椿のヒールがもう一ミリ余計よけいに、飯塚の脚に突きささった。

圧倒的な、尽きる事のない喜びが、飯塚の全身を駆けめぐる。


「イエスってことで、いいかな椿?」


飯塚が見上げると、椿は柔らかく身体をかたむけて、飯塚の耳にささやいた。


「そんなこともわからないの?お仕置しおきがいるかしら―――ダメな犬ね」


今度こそ、飯塚の全身が明確な愉悦にふるえる。

そのままそっと椿の指にはめた指輪に唇を乗せ、飯塚慎二は未来を預けた、たったひとりの人に向かってささやき返す。


「お望みのままに、女王様」




『俺の余白をあなたで埋めて』 初稿脱稿 2020年3月3日

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