第57話 俺が、この世にいてもいい理由

飯塚慎二いいづかしんじのまわりには、高級ホテルのメインバー特有の高揚するような空気がうずまいていた。

客の談笑する音、高価なクリスタルグラスがテーブルに置かれる音。

このメインバーで六年も働いているバーテンダーの飯塚にとっては、なじみの音ばかりだ。

飯塚にとっては子守歌のような優しい雑音。


なじみの音に包まれて、飯塚はバーテンの制服である白シャツ、黒い蝶ネクタイ、ブルーグレーのサテンのベストを身にまとい、すっくと立っていた。

手元には高々とかかげたシルバー盆がある。盆の上には、ピンク色のロンググラス。

酒をたたえたグラスの面には、かすかにピンク色のさざ波を立っている。

飯塚の手が、ふるえているからだ。


飯塚はひゅっと息を吸い込むと、かるく勢いをつけて、テーブルに座る舘林椿たてばやしつばきの前にひざまずいた。

そしてブルーグレーのベストのポケットから小さな指輪を取り出し、するりと指輪をピンク色のカクテルに落とす。

そのまま優雅な角度でシルバー盆を椿の前に差し出した。


椿が、目を見張っているのがわかる。飯塚の目の前で、椿の小さな口が開きかける。

それを見た瞬間、飯塚の中に鋭い警報音が鳴り響いた。

だめだ、椿。

先に言うのはだからね。

飯塚はちらっと椿を見あげてにこりとした。


椿のくちが、止まる。

それをみた飯塚慎二は、自分にも椿にも一切いっさいの言いわけを許さないタイミングで、言いたいことだけを言ってのけた。


「結婚しよう、椿。俺はこの先も、ずっと君だけのものだと思うんだけど?」


飯塚のまわりで、ふいにあらゆる音が消えた。色も匂いも、何もかもが消えた。

まるで限りのない余白に囲まれているように。

ただ、目の前にいるこの小さな女性だけが、飯塚の余白を埋められる。


飯塚は、自分が椿の前に並ぶ無数の男の一人であることを感じとった。

椿がこの先に出会う可能性のあるたくさんの男たち。椿を幸せにできるかもしれない男たち。

そして、椿が幸せにできるかもしれない男たち。

自分が、たくさんの男のなかの一人にすぎないことは分かっている。


それでも、飯塚慎二の女王様はこの世にたった一人だ。

舘林 椿。ただ一人。

飯塚はコルヌイエホテルのメインバーで深紅のじゅうたんにひざまずいたまま、じっと椿を見上げた。

そして椿にしか聞こえない声で、ささやく。


「俺が、この世にいてもいい理由を、きみがさずけてくれよ」


ふいっと、椿のまゆがほんの少しだけ持ち上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る