第55話 惚れた女のための、ワルツ

「なんだ、あの美人と知り合いか、飯塚?」


飯塚慎二いいづかしんじのほのかな笑いを受けて、コルヌイエホテルスタッフの制服で背筋をピンと飛ばしたままの宇田川うたがわが尋ねた。

うん、と飯塚はあいまいに言った。

指が長くて大きな飯塚の手のひらが、ピンク色のフルーツリキュールの瓶の上でひらひらを動き回る。


ルジェ・ピンクグレープフルーツ。

柑橘かんきつの香りとピンク色がみずみずしい果実のようなボトルの上で、骨太な男の手が優雅なワルツを踊っている。

惚れた女のための、ワルツだ。


「はやくオーダーを取って来いよ、宇田川」

「ああ……しかしお前、その酒はどのテーブルだ?」


宇田川がに落ちない顔でもう一度たずねると、飯塚はわずかに耳のあたりを赤らめて言った。


「どうでもいいから。早くあのテーブルのオーダーをくれ」


うんと宇田川が、メインバーを仕切る鬼ボス・深沢洋輔ふかざわようすけゆずりのピシリとした立ち姿で、オーダーを取るために新しい客のところへ向かった。

言ったかと思うとすぐに飯塚のいるバーカウンターへ舞い戻ってきて


「わりい、面倒なオーダーだぜ。片方は“パローマ”。もう一人はピンク色でレモンの入ったカクテルをお願いします、だと。ピンクでレモンって言われてもなあ」

「ひとつは、パローマだな?」


飯塚がねんを押すように聞きなおすと、宇田川は声をひそめて


「パローマは問題ないだろ。面倒なのはもうひとつのほう……」


と言いかけたときには、飯塚はすでに二つのグラスを作り終えていた。

よくよくみれば、片方のロンググラスは宇田川がオーダーを伝えたときにはもう用意がされていたようだ。

ピンク色の酒が入ったグラスが、かすかに汗をかいている。


「え、なんだよ。オーダー前に何を言われるのか分かってたのか、お前?」


うん、と飯塚は短く答えた。

そしてすばやくチーフバーテンダーの深沢を見て、頭を軽く下げた。

深沢が、仕方がないという顔をしている。

飯塚はボスの機嫌が変わらないうちにと、急いでバックルームに引っ込み、シルバー盆を手にしてカウンターから出た。

それから宇田川を見て


「ウタ、しばらくカウンターに入っていてくれよ」

「ええ? 俺、カクテルはへたくそだぞ」

「酒はボスが作るよ。なあ、他の男が酒を運ぶところを見たくないんだ」

「じゃああれが、お前のカノジョか? なるほどな……美人だし身長もあるから、お前と並ぶとちょうどいいよな」

「大きいほうじゃないよ」


飯塚は笑って答えた。言われた宇田川のほうが、目をみはっておどろく。


「え。じゃあ、あのパッとしないほう……」


飯塚はもう何も答えずに、カウンター上の酒のグラスをシルバーに乗せた。

ひとつはテキーラがほのかに白いカクテル“パローマ”。

もうひとつはロンググラスにクラッシュアイスとピンク色のフルーツリキュール、しぼったばかりのレモン果汁を入れた飯塚慎二のオリジナルカクテルだ。


飯塚は二つのグラスを乗せたシルバー盆を持ったまま、こみあうコルヌイエホテルのメインバーフロアを慎重に歩いてゆく。

その背中から、一生に一度の恋をしている男の七色なないろの気配がゆらゆらと立ちのぼった。

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