第50話 ボスはSMのひと…

飯塚慎二いいづかしんじは浴室の中で泡のついたスポンジを持ったまま、もう一度、椿つばきに聞きなおした。


「“ようすけさん”って、うちのボスの”深沢洋輔ふかざわようすけ”? ところで椿ちゃん、背中を洗うからじっとしていて」


うん、と椿は背中を見せまますなおにうなずいた。そのまろやかな背中を、飯塚の手がボディソープの泡でデコレーションしていく。

まるで小さくて可愛らしいショートケーキのような椿の背中。

飯塚は大切な椿の背中をそっと洗いつつ、首をひねった。


「なんでうちのボスが、君のお姉さんにSMバーの店長になってもいいなんて言えるんだ? あっ、ボスとなつきさんはその時つき合っていた?」


ちがうよ、と椿はボディソープの泡をくすぐったがりながら答えた。


「違うよ。だって“ダブルフェイス”は洋輔さんの店だもん」

「はあ!?」


飯塚慎二はおもわず手にしていたスポンジを湯の中に落としてしまった。椿があわててスポンジを拾い上げる。


「もう。お湯が泡だらけになっちゃう。どうしたの、飯塚さん」

「ボスが、SMバーのオーナー?」

「そうだよ」


椿は身体にタオルを巻いたまま壁のほうを向き、飯塚に丸い背中を見せながら、自分で胸元やのどを洗っている。

ふっくらした二の腕を洗い、飯塚にかくすようにして、なめらかなお腹やおしりも洗っている。

飯塚は、椿の言葉と目の前で無造作に繰り広げられる扇情的な場面でくらくらしてきた。


「……えっ。ってことは、ボスはSMのひと……」

「そんなわけないじゃん」


椿があっさりと笑い飛ばす。


「あんな人に責められたら、どんなM女でも殺されちゃうよ。歯止はどめがきかないんだもん。反対に、洋輔さんを奴隷にできる女王様なんていないし」

「ああ、いや。いないこともないな……ボスの奥さんは……うん、それはどうでもいいんだけど。

そうか、ボスがオーナーなのか。だからなつきさんを雇ったんだな」

「っていうかね」


と椿はのんびりと身体を洗い終わり、飯塚の手からシャワーを取って泡を流し始めた。

つややかな丸みを帯びた椿の肩が、銀色の湯を浴びて狭いバスルームで輝く。


ぎゃく、かな。洋輔さんは、お姉ちゃんが働けるように“ダブルフェイス”を買ったの。店長になった時、お姉ちゃんは二十八才だった。だから洋輔さんが三十才くらいのときだね」


飯塚はぼんやりと椿を眺めつつ


「そんな金、よくボスが持っていたな」

「洋輔さんってよくわからない人だから。あっ、でも“ダブルフェイス”を買う時だけは、お金が必要だからって他にも共同経営者っていうひとを連れてきていた」

「他のひと? ボスがプライベートで組む人なんていない……」


そう言いかけて、飯塚ははっとした。

いる、一人だけ。

深沢洋輔が無条件で背中を預ける男がいる。

井上清春いのうえきよはる

漆黒のカシミアコートをまとい、深沢洋輔と同じくらいに汚いケンカの手口に精通している男だ。


「あのふたり……いったい何なんだよ」


飯塚は思わずそう、ぼやいた。

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