第七章「花ひらく」

第49話 かわいい子犬

飯塚慎二いいづかしんじがハッと我にかえると、寝室のすみで椿つばきが脱力したようにぐったりしていた。

飯塚は申し訳ない気持ちで起き上がり、ベルトで縛られた両手でそっと椿の小さな肩をゆする。


「椿ちゃん、大丈夫?」


うん、と椿は目を閉じたまま答えた。


「だいじょうぶ」

「大丈夫じゃないよ。ごめん、無理をさせたね」


飯塚の言葉に椿はうっすらと目を開けた。

飯塚は椿にベルトをほどいてもらい、手近にあった毛布で椿の身体を包みこむと、そっと抱きしめた。


「ごめん、ごめんよ、椿ちゃん。よければ風呂にでも入る? 俺が助けるよ」


うん、と椿は立ち上がろうとして、やはりよろめいた。飯塚がすぐに椿の身体を支える。

こんな小ささで、と飯塚は思う。

こんな小さな身体で、椿は飯塚をへ連れて行ってくれた。そのためにどれほどの努力とちからが必要だっただろうか。

飯塚は静かに、毛布で包み上げた椿をかかえあげた。


「風呂に、入れてあげる」

「……うん」


椿は目を閉じたまま、飯塚に身体をゆだねてうなずいた。

飯塚は椿のこめかみにキスをする。

今度は飯塚が、椿を飯塚の世界に連れてゆく番だ。


飯塚は椿が狭い脱衣所でたどたどしく服を脱ぐのを待ち、浴室に呼ばれるまで待ってから静かに浴室へ入っていった。

椿は飯塚の渡したきれいなタオルに身体を包んだまま、小さな湯船にひたって疲れ果てた表情で目を閉じている。

飯塚はシャワーを手に取り、ゆっくりと椿の髪に湯を当ててシャンプーから始めた。


「湯、あつくない?」

「うん」


飯塚はていねいに椿の髪を洗い、シャンプーの泡をすすいだ。その途中で椿がくすっと笑った。


「気持ちいい。けど、あたし犬みたいね?」

「かわいい子犬だな。椿の髪は柔らかいね、伸ばさないの」

「手入れがめんどうなの」


ふふ、と椿はもう一度笑った。


「飯塚さんと同じシャンプーだなんて。あたしの匂い、飯塚さんと一緒になるね」

「同じ匂いはいや?」


髪をすすぎ終わった飯塚は、スポンジでボディソープを泡立てながらそう尋ねた。椿は少し考えて


「どうかな。誰かと同じ匂いになったのは、お姉ちゃんと暮らしていたころが最後だから」

「いつから一人で暮らしているの?」


飯塚が尋ねると、椿は少し首をかしげた。


「六年前、かな。お姉ちゃんが正式に“ダブルフェイス”の店長になって、帰宅時間が全然読めなくなったからあたしは別に部屋を借りたの。

あのころ、あたしは昼間の仕事だったし、お姉ちゃんが深夜に帰ってくる音で目を覚ますようになっちゃったから」


ああ、と飯塚は椿を湯船の中で膝立ひざだちにさせ、子供にやるように椿の肩と背中を洗っていった。


「そうか、なつきさんは“ダブルフェイス”の店長なんだ」

「そう。お姉ちゃんもそろそろひとちしてもいいだろうって、洋輔ようすけさんが言ったから」

「……ようすけさん?」


ふと飯塚は手を止めた。


「”ようすけさん”って、うちのボスのこと? 深沢洋輔ふかざわようすけ?」

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