第48話 この世の何を信じなくてもいい、あたしだけを信じなさい

「あ……あ……」


飯塚慎二いいづかしんじは深夜三時の寝室の静寂を背景にして、うめいた。

飯塚のピンク色の舌がかすかにゆれ、口の中にしまいきれない快楽で踊っているのを椿は見た。

ちろっと動いた飯塚の目が、椿に次の行動をうながしている。


椿はとっさにしゃがみこみ、床の上のステープラーを取って開くと飯塚の目じりに当てた。

冷たい金属の感触に思わず飯塚が目を見張る。その両目を、椿はまっすぐにのぞき込んだ。

大丈夫、と視線で伝える。


大丈夫、あたしがついている。

あなたにはもう、余白なんてどこにもない。

あたしを、信じなさい。この世の何を信じなくてもいい、あたしだけを信じなさい。

飯塚慎二のためだけの、女王様を。


ぐっと、椿はステープラーを飯塚の目じりに押し付けた。飯塚の整った顔立ちが、痛みの予感と恐怖にゆがむ。

椿は、最後の力を振りしぼって飯塚にささやいた。


「こんなものひとつ渡せないなんて。ダメな犬ね」


やわらかな飯塚の目じりに、ザラザラしたステープラーの針がふれるのが、椿の手に伝わった。

力を、加減する。

あと一ミリもない距離で、飯塚の柔らかい皮膚と冷たい金属が密着している。針が皮膚にふれそうで、まだ触れていない。

しかし椿がその気になればこのまま金属の針を飯塚の目じりに打ち込める。


そこまで、やる必要があるのか?

椿の背中に汗が流れた。しかし声だけは冷静に


「おしおきよ」

「つばき……つばき、ごめん。俺が悪かった」

「悪かった? なにが?」


椿が女王様のテクニックで飯塚を追い詰めてゆく。

飯塚はすでにわれを捨て、椿の作り上げた迷路の中で甘美にまどっている。

薄暗い迷路の中で、十一歳の飯塚慎二が何のうれいもなく“愛している”と歌いっている。


「おれが悪かった。ごめん、今夜きみを守れなくて。子どもの頃の君を、俺が守れなくて。かあさんを守れなくて。ごめん、つばき!」

「じゃあ、これからはあたしの犬になってあたしを守りなさい。できる? ダメな男のくせに」


椿がそう言った瞬間、飯塚がすがるような目線を椿にひたと据えた。


「椿。君は俺の女王様だ。おれだけの、女王様だ」


飯塚の目に力が戻る。椿の目をのぞき返し、一言ひとことずつ、くっきりと刻み込むように声をあげた。


「この世で君を守る男は、俺だけだ。覚えていてくれ、椿」


ふっと椿がステープラーをはずした。飯塚はまだ必死な目の色で、椿を見つめている。

館林椿はそっと、寝室のカーペットの上でつんいになったままの飯塚の耳に最後の言葉をささやいた。


「よくできたわね。いい子ね」


それを聞いた瞬間、飯塚慎二は甘やかに、昇りつめた。

椿に指一本ふれることなく。

飯塚慎二の余白は、深紅の歓喜で埋まっていった。


この世には、正気を投げ打つにる快楽がある。

快楽だけですまない、愉楽がある。

飯塚慎二の甘くふるえ続ける体は、今夜うまれて初めて骨の底からの歓喜を味わったようだ。


それを見届けて、舘林椿たてばやしつばきはふっと身体中の力がほどけるのを感じた。

すうっと、椿の意識が遠くなる。

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