第40話 共犯

血が出たわ、と椿つばきは静かに言った。

夜三時の飯塚慎二いいづかしんじのアパートはとても静かで、椿は自分の声が水たまりに落ちた一滴の泥のように感じた。

綺麗きれいな場所に、あってはならないもの。

椿の中の、どうしようもない違和感。


だが飯塚慎二は、その違和感をここで吐き出してしまえ、と言う。

飯塚が、違和感ごと椿を背負せおうためだ。

それだけのものを飯塚に背負わせてしまっていいものかどうか。

椿は迷っていたが、飯塚がぎゅっと手を握ってきたので、その力に肺から空気が押し出されるように椿はまた、しゃべり始めた。


「ものすごい量の血が出たの。それでも、お父さんはしばらく動いていたわ。そのあいだお姉ちゃんはあたしを抱きしめて、お父さんが見えないようにしてくれていた。

それでも見えた。お父さんがだんだん動かなくなっていって。血が、床に広がっていって、あたしとお姉ちゃんの足元まで来た」


あの日、椿の姉のなつきは、その血を指ですくい取った。血の色の意外な黒さに驚いたことを、椿は昨日のことのように覚えている。


「お姉ちゃんはじっと血だらけの手を見て、それから言ったの。

『椿、これはあんたには何の関係もない。あたしだけのことだ』

って。でもね、あたしすきを見てお姉ちゃんの指をめたわ。だから、あたしたちは共犯なの」


椿は顔を上げて飯塚を見た。


「あたし、お父さんの血の味を知っているのよ」

「そうか」


飯塚がそう言うと、椿はこくりとうなずいた。それから


「お姉ちゃんは、それからなぜか洋輔ようすけさんに電話をした。洋輔さんはお姉ちゃんの高校の先輩なの。電話をしたら、洋輔さんがすぐにうちに来たわ。それから、いろいろな手配をした」

「手配?」


飯塚に聞かれて、椿もちょっと首をかしげた。


「そう。手配。一体どうして高校生の洋輔さんが、あんなことができたのか…今考えると不思議なんだけど。だけど何もかも、洋輔さんがやってくれた。

あたしとお姉ちゃんを連れ出して、一晩ビジネスホテルに泊めてくれて、翌日アパートに戻ってみたらふだんと何ひとつ変わっていなかった。

あれほどたくさんあった血は、シミひとつ残らず消えていたの。それから、お父さんも消えたわ」

「お父さんが、消えた?」


飯塚が不思議そうに言う。椿はようやく少し笑えるようになった。


「へんでしょう?でも、消えたとしか言いようがないの。戸籍上は、今でもまだお父さんは生きていることになっている。あの後、お姉ちゃんと洋輔さんが話しているのを少し聞いたこともあるの。

お父さん、あれで死ななかったんだって。出血はすごかったけれど、それくらいじゃあ人って死なないんだって。洋輔さんはこう言っていた。

『あの男を殺しちまうのは簡単だが、それじゃ”保護者不在”ってことになって、お前らは施設に送られる。二人とも未成年だからな。あのクズおやじは山奥のタコ部屋に放り込んだから、これまでどおり二人で暮らせ。オヤジの代わりを見つけてきてやる』

って。そのとき、あたしは八歳でお姉ちゃんはまだ十六だったのよ」

「オヤジの、かわり?」


飯塚は、椿のいうことの意味が分からないという顔をしていた。

椿は、ようやく笑った。

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