第39話 君がしょっているもの

館林椿たてばやしつばきは、正面にいるきれいな顔の男をじっとのぞき込んだ。

そこにあるのは、透明な、とてもきれいな目だ。

椿がこれからひどいことを言うのを知っていて、それがどれほど椿を苦しめ、傷つけてきたか、知っていてもなお、受け入れようとしている。

椿は口をつぐんだ。


飯塚慎二いいづかしんじは、しばらく目線めせんを椿の青白くなっているこぶしに落としたまま待ち、やがてため息をついた。


「話せ、椿。俺に君がしょっているものをよこせ。楽になるんだ」


椿の口が開いた。

飯塚慎二は椿の言葉を受け止める準備のように、椿の眼を見たまま、その唇を指で柔らかくなぞっていった。

椿の舌は、まだ震えている。

飯塚慎二は椿の顔を両手で包み、かすかに笑った。


「君が言わないのなら、俺が君から引き出すよ」


そっと、飯塚の唇が椿の唇に重なった。あたたかい舌が椿の中に入り込み、黒い言葉の最初の一音を引き出していく。


「さあ。話して、椿」

「お…お父さんが」

「大丈夫。続けて」

「おとうさんが、おねえちゃんを、レイプしていたの」


その瞬間、椿は八歳の子供に戻っていた。

目を見開き、ショートカットの髪の先を震わせてつぶやいた。


「あれは、最後までレイプしていたわけじゃないかもしれない。あたしが見たのは、お父さんがお姉ちゃんにおおいかぶさっていた形だけだから。でも、お姉ちゃんの足がお父さんの腰や背中を蹴っていて、紺色のソックスが半分、ぬげていて」


飯塚は何も言わずに、椿の髪を撫で続けた。

椿の声が夜の中に溶けきらずに、ざらざらした粒子となってホコリひとつない飯塚の部屋の中にばらまかれてゆく。

ぎしぎしときしむような、いやな擦過さっか音。その音は、館林椿の内部からあふれだしていた。


「あたし、台所から包丁を持ってきたの。なぜそんなことをしたのか分からない。でも、気がついたら持っていた。そのまま―――お父さんの腰を刺したの」


あの手ざわり、と椿はつぶやいた。


「固いような、柔らかいような中に、包丁が入っていくの。途中で止まったわ、きっと、骨に包丁の刃がぶつかったのね。あたしは子供だったし、それ以上続けられなかった。そうしたら、お父さんが」


おとうさんが、と椿は続けた。


「おとうさんが振り返って。腰の包丁をぬいたの。抜いたとたんに、一気に血が噴き出した…そのまま、お父さんはあたしに向かってきた。血だらけで、手をのばして、あたしの首をつかんで」


ひゅっと、椿の咽喉が勝手に締まった。

まるで悪鬼にのど元を締め上げられているように。


「お父さんがあたしの首をつかんだまま持ち上げたの。息ができなくて、息が。そうしたら、お姉ちゃんが」


椿は何もうつしていない瞳で、飯塚慎二を見た。

透き通ったままの飯塚の目が、椿に柔らかく語りかけていた。


言え。

俺を信じて、何もかも、言ってしまえ。


椿の咽喉に、隙間ができる。

飯塚がくれた余白のおかげで、ほんの少し息ができるようになる。

声が、出た。


「お姉ちゃんが、落ちていた包丁でお父さんの背中に突き立て直したの。何度も刺したわ」

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