第六章「夜明け前」

第37話 お父さんを、刺したことがあるの

館林椿たてばやしつばきは、まるで夢を見ているような気持で、飯塚慎二いいづかしんじの部屋に入った。

以前来た時と同じように部屋はきちんと整理がされ、掃除がされていた。いつも乱雑な姉のなつきの部屋とは大違いだ。


このひとは、ちゃんとした人だ、と椿は改めて思った。それから、今夜椿を助けるために、深沢ふかざわと一緒に拉致されていた部屋へ飛び込んできてくれた飯塚の姿を思い出した。

それだけで、椿のこごえ切った身体にわずかだが温かみが戻ってくる。

椿はそっと、両手をこすり合わせた。


飯塚はうちに戻ると忙しげにあれこれと支度を始めた。

そしていったんどこかに引っ込んだ後、タオルと着替えを椿に手渡した。


「風呂に入りたいだろうと思って」


椿は真っ白なタオルを不思議なものを見るように眺めた。


「風呂の場所は、あそこ」


と飯塚はもう一度言い、それから部屋の隅のドアを指した。


「あそこが風呂だから。入っておいでよ」

「あたし…汚いですか?」


椿が自分の服を眺めはじめたので、飯塚はあわてたように


「汚くなんかない。ただ、きみは入りたいんじゃないかって」


ああ、と椿はうなずいた。


「あたしが、あいつらに、さわられたから?」


椿の言葉を聞いて、飯塚の顔が蒼白になった。

やがて、低く押し殺したつぶやきが、飯塚から漏れた。


「あいつら、きみに何かしたんじゃないだろうな。それなら―――今からいって、全員殺しなおしてやる」


飯塚の顔つきが瞬時に変わったので、椿のほうがあわてた。

白いタオルを手にしたまま、それをぶんぶんと振りまわし


「ちがうんです、あたし、あの」

「椿、言え。どの男だ、切り刻んで来る」

「違うんです!あたし―――あたし、きれいじゃないの」


ふっと、飯塚の目から凶暴さが消えた。静かな、とても静かな目をしたまま、飯塚慎二はさっきからしきりとこすりあわされている椿の両手を見た。


「椿ちゃん、手に、さわっても大丈夫?」

「…あ。はい」


そっと、飯塚の大きな手が椿の手を包み込んだ。椿はここにきて、初めて飯塚の手をじっと見た。

大きな手だ。手のひらがやけに大きく、そして指が長い。

バーテンは手を使う仕事だ。大きいから良いというわけではないが、小さいよりはいい、と飯塚が笑って言ったことがある。


その手が、今は椿の手をそっと握りしめている。

あたたかかった。

ぱたり、と飯塚の手の上に涙が一滴落ちた。


「椿ちゃん」


飯塚が何か言おうとしたが、その前に椿は自分の持っているうすぎたない爆弾を落とした。


「あたし、おとうさんを、刺したことがあるの」

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