第36話 「大事な女を、うちに置いてきてるんだ」
椿は何も言わず、だまって飯塚の誘導する通りに車から降りた。その反応のなさが、飯塚の中に不安を呼び起こす。
あいつら、椿に何かしたんじゃないだろうか。
ぎりっと飯塚が奥歯をかみしめたとき、なぜか、小さな軽自動車の運転席にいた
そして車内に残る深沢に向かい
「おれは、ここからタクシーで帰る。おまえも行けよ、洋輔」
と言った。
深沢洋輔は何も言わずに運転席に回り、車で去っていった。
あとには、井上清春の端正な姿だけが残る。十ニ月なかば近く、深夜の寒風が井上の漆黒のロングコートをわずかにはためかせた。
コートが包んでいるのは、百八十五センチの細身の身体だ。
しかしその身体には飯塚をはるかにしのぐ力があり、椿を軽々と肩に乗せて非常階段を駆け下りるだけのスピードがあった。
井上は黒いカシミアのコートを着たまま、ゆっくりと歩いて椿の前に立った。
そっと、笑いかける。
椿の顔が、わずかにゆるんだ。
井上の完璧に整った顔は、こうやって女に笑いかけるだけでどんな緊張もこわばりもとかしてしまう効果があるようだ。
飯塚の見るところ、井上は自分の端正な美貌の力を知り尽くしていて、必要な時にだけこうやって使いこなしてみせるらしい。
井上清春の、やや甘いテノールの声が椿にゆるやかに話しかけた。
「つばきさん、今夜はもう、ゆっくりとおやすみなさい。飯塚がついていますから、怖いことはなにもありません」
椿は何も言わずにじっと井上の端麗な顔を見上げていた。それから
「そうでしょうか」
とだけ言った。井上は再び微笑み、
「あなたに、惚れこんでいる男を信じてやってください。男なんてね、好きな女が信じてくれれば、どんなことでもやってのけるんです。今夜の飯塚みたいにね」
それから井上は飯塚を見た。
「自分がどうなってもいいと思うほどに、守りたかった人なんだろう。いたわってあげなさい」
話し終えると井上は世にも美しい顔で笑い、
「おれも帰らせてもらうぜ。大事な女をうちに置いてきてるんだ」
と言うと、漆黒のカシミアコートのすそをひるがえして夜の中に溶けていった。
それを見送り、飯塚はしずかに椿に声をかけた。
「いこうか」
飯塚が歩き始めると、椿はだまって後をついてきた。
二人の後ろで、飯塚の部屋のドアがパタンとしまった。
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