第34話 くそキヨ

井上清春いのうえきよはるは、非常階段の最後の数段を、椿つばきを肩に乗せたまま飛び降りた。どういう仕組みなのか、二人分の体重で着地するときでさえ、井上は足音ひとつ立てなかった。

つづいて飯塚が階段を下りきると、井上はそっとこわものを手渡すときのように椿を地面に立たせて、飯塚に預けた。


「もう、帰れるからね」


そういうと、非常階段の真下ましたにとめておいた赤い軽自動車に乗り込み、エンジンをかけた。

飯塚は椿を車の中に押し込むようにして、自分も続いてバックシートに乗る。

ぱたん、と車のドアが閉まった瞬間、深沢洋輔の姿が四階の非常階段の上に出てきたのが飯塚に見えた。


深沢は、なぜか非常階段のドアを全開にしてから、軽く足で何かを押した。

どうもさっき、井上がドアストッパー代わりにしたステープラーをかまして、ドアを大きく開いた状態にとめたようだ。

なぜあんなことを?と飯塚が首をかしげたとき、井上清春が一気に車を走らせ始めた。

まっすぐに公道へ向かっている。

飯塚があわてて


「井上さん、ボスがまだっ」


というと、井上清春はまだ美貌を黒いネックウォーマーでおおったまま、目元だけで笑ってみせた。


「あんな奴、置いていったほうがいいんだ」

「井上さんっ」


飯塚が振り返ると、深沢洋輔がすさまじいスピードで非常階段を駆け下りていた。かけるというより、飛んでいるといったほうが正しい。

百八十八センチの筋肉質の身体が乱暴に階段をおりると、もう半分以上壊れかけている非常階段が、衝撃でガタガタと揺れた。

そして最後の一階分を、深沢洋輔は手すりから派手に飛んで下りた。


深沢が手すりを蹴った衝撃で、すでに弱り切っている非常階段が激しくかしいだ。はずみで非常階段のドアを止めていたストッパー代わりのステープラーがはずれたようだ。

あるいは、深沢はそれをねらっていたのか。

まるでスローモーションのように、非常階段のドアが閉じてゆく。


ドアが閉じ切った瞬間、ドガラッ!という轟音とともに、4階の非常階段のあたりから炎と煙が出た。

飯塚があっけに取られていると、大きなストライドで走ってきた深沢の横に、井上が絶妙なタイミングで車を寄せた。

ガっとドアが開く。小さな軽自動車の助手席に、深沢の長身が勢いよくころげ込んできた。


ドアがしまりきる前に井上が車を出す。

助手席に乗り込み、すさまじい勢いでドアを閉めた深沢洋輔はすぐそばにある端麗な井上清春の美貌に向かって食ってかかった。


「…てんめええ、くそキヨ!」

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