第33話 「もう飽きた」

狭いマンションのリビングの中で、飯塚慎二いいづかしんじが男に勢いよくぶつかると、はずみで男が吹っ飛んだ。

しかし吹っ飛んだタイミングで男は床から包丁を拾いなおし、すばやく立ち上がると、今度はまっすぐに飯塚に向かってきた。


刃物のぎらつく輝きと、男の血走った眼が飯塚にせまった。

飯塚は思わず息をのむ。

刺される。

そう思ったとき、飯塚の背後で面倒そうな声が聞こえた。

深いバリトンの声。

普段は女を落とすことだけに使うようなのんきな声が、びりびりするような凶悪さを底に秘めて、響いてきた。

深沢洋輔ふかざわようすけの声だ。


「てめえ。俺のテカにまで手ぇ出そうってぇのか」


そのまま、深沢はずいずいと前に進んできた。

バランスを崩して半分ころびかけている飯塚のわきを無造作に抜け、そのまま深沢は若い男に向かって大股で歩いて行った。

男のほうは深沢の気配にどんどん押され、背後はちっぽけなキッチンシンクにはばまれて、もうどこにも行けない。


まるで蛇に飲まれたカエルで、ぶるぶると震えながら、それでも身体の前で握りしめた包丁だけは放さない。

目が大きく開き、口元が恐怖でひん曲がっていた。

深沢洋輔はケダモノのばねを身体の芯にしまいきったまま、飯塚に向かって物憂そうに言った。


「もう飽きた。とっとと帰るぞ」


深沢はそう言いながら軽く手首のスナップをきかせて、男に何かを投げつけた。

ざくり、と男の左目に金属片が刺さる。

悲鳴が上がった。

男の手から、ぼたりと包丁が落ちると同時に、我に返った飯塚は身体をひるがえして部屋のすみで腰を抜かしている舘林椿たてばやしつばきをさらうようにひっつかんだ。


そのまま椿の小さな身体を肩に抱え上げ、急いで部屋から出た。

ぱたん、とドアを閉じる。

そのうしろから男の、死んだほうがいいような悲鳴が、追いかけてきた。

廊下の奥を見ると、井上清春いのうえきよはるが五人の男を行動不能にしてたきぎのようにきれいに積み上げ終わり、もう非常階段のドアを開けていた。


「下りろ」


井上は飯塚に短い指示を出すと、椿を抱えたままの飯塚を先に非常階段に出し、自分は非常階段のスキマに小さなものを差し込んで、出てきた。

飯塚が見るところ、差し込まれたのは文房具のステープラーのようだった。

それがくさびになっているのか、マンションの四階から非常階段に続くドアはきちんと閉まり切らず、廊下からドアを蹴やぶるだけで出られるようになっている。


飯塚が椿を抱えたままちらりを後ろを見ると、井上清春は黒い手袋をはめた手で、器用にガムのようなものをドアの蝶番ちょうつがいのあたりに張り付けていた。

そしてそのまま、飯塚に続いて非常階段を駆け下りてくる。


漆黒のロングコートをひるがえして下りてくる井上のスピードは驚異的で、たちまち飯塚と椿に追いついた。

追いつくと


「代われ。おれのほうが早い」


と言ったかと思うと、ふわっと椿を飯塚の肩から自分の肩に乗せ換え、そのまま階段をすべるように降り始めた。

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