第32話 陶器のようにひび割れて

飯塚慎二いいづかしんじがマンションの薄汚い部屋に戻った時、すでにべつの二人の男が玄関先にころがっていた。深沢洋輔ふかざわようすけが、奥のリビングで仕留しとめた男たちは、これで合計五人だ。


玄関先の二人はすでに白目しろめをむいており、わざわざ引きずっていく必要はないように見えた。

しかし念のため、飯塚は二人を引きずり出し、外廊下の非常階段前で待っている井上清春いのうえきよはるの前に置いて、部屋にせもどった。


飯塚はマンションのスチールドアを開け放したまま、いそいで奥のリビングに行く。その途中で、いちおうトイレもチェックした。もちろんそこにも椿つばきはいない。

この部屋に、椿はいないのか?

飯塚は不安に襲われながら、奥の部屋に飛びこんだ。

そして、目を疑う。


レザージャケットを着た深沢洋輔の長身の向こうに、キッチンを背にして立つ男がいた。飯塚がSMバー”ダブルフェイス”の裏口で見た男だ。

そいつが、椿に包丁を突き付けている。

椿の顔は、陶器のようにひび割れて、蒼白だ。


ショックでいっぱいになっている顔は、彼女が男から包丁を突き付けられているからなのか、それとも男に羽交はがめされて、のどもとやお腹のあたりを腕で押さえつけられているからなのか、飯塚には分からなかった。

重度の男性恐怖症である椿にとっては、包丁よりも男にふれられていることのほうがえがたいだろう。


飯塚慎二は自分の身体をすさまじい勢いで駆け抜ける怒りが、奔流となって口からあふれたのを聞いた。

ふだんはコルヌイエホテルの優等生バーテンダーの飯塚が、怒号を上げていた。


「てめえっ、椿を放せ」

「放してほしかったら、てめえらが出ていけよ。なんだよ、突然」


椿に包丁を突き付けている男は興奮しすぎているようで、口元にピンク色の泡をふいていた。ピンク色なのは血が混じっているからだ。

どうも椿をらえている男は、先に一発、深沢洋輔からぶん殴られたようだ。


俺が代わりに殴りたかった、と飯塚は考えた。考えると同時に、身体が動いた。

ガツッと、飯塚の足が椿の顔のすぐ横を走り、男の顔にめり込んだ。はずみで男が包丁を落とすと、飯塚はそのまま相手に突っ込んでいった。


肩から、相手の腕の付け根当たりにぶつかる。ここは関節になっているので、飯塚が強く肩で押し込んだせいで、男の手が痛みと衝撃のために椿からはなれた。

椿がころがるように男から逃げ出したのが、飯塚の視界の端に入る。

次の瞬間、男の重いパンチが飯塚のみぞおちに決まった。


「ぐふっ」


にがい胃液が、飯塚の口まであふれてくる。

吐き出しそうになりながらも、いま態勢を崩したら、相手が突っ込んで来そうな気がして、飯塚は必死で踏みとどまった。

そのまま、勢いをつけてもう一度、男の顎に向かって飯塚は頭を突き上げた。

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