第31話 彼女を。 取り戻す。
ごく普通のマンションで玄関からまっすぐに短い廊下があり、突き当りにガラス戸、両側にうすっぺらいドアが二つ並んでいた。
深沢が、短く飯塚に指示を出す。
「手前の部屋ふたつをチェックしとけ。クローゼットも押し入れも全部開けろよ、どこに
「隣のドアは?」
「ありゃ便所だ。てめえ、さっき見せた間取り図を覚えてねえのか」
そういった直後に、深沢洋輔の長身がひらりと飛んで、突きあたりのガラス戸を引き開けた。
飯塚は夢中で廊下横の薄っぺらいドアを開け―――俺、人の家に土足で上がっているよ、と初めて飯塚は気が付いた―――荷物が置いてあるあたりに飛び込んだ。
わけも分からず荷物をあさり、カーテンを開け、押し入れや大きなタンスなどもめちゃくちゃに開けてみた。
何もない。
飯塚の心臓だけが耳元で大きな音を立てて鳴り響いているが、探している椿の姿はどこにもない。
この部屋には、男どもの汚い衣類や段ボールが雑多に突っ込まれているだけだ。
飯塚はいそいで部屋から出る。念のためにドアは明けはなしておいた。この部屋はもう、チェック済みだという証拠だ。
そのまま急いで深沢のいる奥の部屋に行こうとして
「わっ」
と、飯塚は思わず声が出た。
廊下に、すでに三人の男が
どれも深沢に一撃で吹き飛ばされたらしく、それぞれ鼻血や口から血が垂れている。
飯塚が汚いマンションの廊下で呆然としていると、すぐ
黒い手袋をはめた手は、ヒョイと男をつかんでズルズルと引きずり始めた。
はっと飯塚が背後を見ると、
井上の美貌には、興奮のカケラもない。
まるで、毎日こなす規則的な作業を、意識もしないで続けているかのような落ち着きぶりだ。
「そいつも、連れて来い」
井上清春はちらりと飯塚を見て、視線で廊下にぐたりと倒れたままの若い男をしめした。自分はとっくにふたりめの男を肩に
飯塚もあわててもう一人の男を引きずり、廊下を進み始める。
顔の半分を血だらけにして、意識をなくしている男を運び出すのは時間がかかった。飯塚は肩でゼイゼイと息を切らして、マンションの玄関を抜けて、暗い廊下を進む。
飯塚が廊下の端についたときには、井上清春はもう一人目の”始末”を終えていた。
井上は黒手袋をはめた優雅で長い指で、カシミアのロングコートのポケットから長めの結束バンドをとりだし、二人目の始末にかかる。
自分が肩に担いでいた意識のない男の両手を後ろに回し、両親指を二本の結束バンドでとめた。
続いて人差し指もとめてしまい、靴下もたちまち脱がせて、これも両親指、人差し指を結束バンドでつないでしまう。
同じ処置をされた若い男ふたりは、これだけで身動きもできなくなってしまった。
井上は結束バンドをコートのポケットにしまうと、今度は粘着テープを取り出して、男たちの口を封じた。
もはや身体も動かせず、声もだせない男二人が、井上清春の足元で転がっていた。
非常に手ぎわの良い職人のように、井上がふたりめを片付けるまでに要した時間はわずかに三分。
そして井上は、飯塚が引きずり出してきた三人目の男の胃の上に片足を乗せ、黒いネックウォーマーでおおわれたシャープなあごを、くい、と別の男の悲鳴が聞こえる部屋に向けた。
「いけ」
井上の短い指示を受けて、飯塚はもう、脱兎のごとく部屋に戻る。
自分が、どんな地獄に足を踏み入れてしまったのか、考えたくもない。しかしあの部屋のどこかに
今、館林椿は飯塚のすべてだ。
彼女を。
取り戻す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます