第21話 どんな理由も、言い訳も許さないほどの圧倒的な恋情

SM女王様のコスチュームのまま、なつきはカウンターの中の初老バーテンに色気たっぷりに顔でいやみを言った。


「ああ、夢がない」


その時、カタンとバーカウンターの奥から音がして椿つばきが入ってきた。いつものようにそっけない黒のトレーナーと黒のパンツ。前髪は長すぎて、椿のきれいな鼻筋を半分ほどかくしてしまいそうだ。

それでも飯塚慎二いいづかしんじの心臓は飛び跳ねて、咽喉がカラカラに乾きあがった。


それが、椿だから。


「椿ちゃん」

「あ、どうも、こんばんわ、イイヅカさん」


飯塚の声に、椿は簡単に答えた。

飯塚が忙しい仕事を終えた後にわざわざ“ダブルフェイス”に駆けつけたことに対する礼もなく、このあと何の見返りもなく椿をアパートに送り届ける行為にも礼はない。

もちろん、愛想あいそうも一切なしだ。

それでも椿がカウンターの中に来ただけで、飯塚の皮膚はぴぃんと張り切った。


椿の身長は百六十センチくらいだろう。中肉中背、年齢は二十代半ば。

とりたてて個性的なわけでもないが、こうやって椿を目の前にするだけで飯塚はとにかく椿に意識を奪われる。その理由はわからない。


美しい女がいいのなら、見た目が端正な飯塚慎二には相手がどれだけでもいる。だが飯塚をらえて離さないのは、ただ、目の前の椿だけだ。

どんな理由も、言い訳も許さないほどの圧倒的な恋情。

それが今の飯塚慎二をいっぱいにしている。


飯塚は食い入るように椿の動きを目線で追った。

少しでも、椿という女性の意識の中に飯塚慎二という男を割り込ませたい。飯塚の視線で、椿をがんじがらめにできればいいのに。

しかし椿は飯塚になどまったく気が付かない様子で、カウンターにいるバーテンに向かい


「カグさん。さっきゴミ出しにいったら、奥の方でなにか音がしたみたいなんですけど」

「おと?野良猫かな」


カグはちょっとだけ首をかしげた。そして椿に


「じゃあ後のゴミ出しは俺がやっておくからいいよ。椿さん、お疲れさま」

「あっ、いいですよ。ゴミまで片付けていきます」


そう言うと椿はひらりと身体をひるがえして、再び裏口へ消えた。飯塚は舌打ちをして立ち上がった。


「俺、見てきます」

「野良猫だと思うけどねえ」


と、なつきはきれいに塗った爪をながめつつ、のんびりとそう言った。


「ええ、たぶんそうでしょう」


そう言いながら、もう飯塚はドアのそばだ。

ほんの少しでもいい、椿と早く二人になりたかった。椿はそれを望んでいないけれども。

そして飯塚が冷え込む十一月の夜気へ出てSMバー“ダブルフェイス”のドアを閉じたとき、月もない深夜の路上に甲高かんだかい女性の声が響き渡った。


椿の声だ。

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