第17話 「天国だぜ、飯塚」

「岡本様は……井上さんの、カノジョさんでしたね」


飯塚いいづかが薄暗い照明の下でそう言うと、井上清春いのうえきよはるは世にも美しい微笑で答えた。


「ええ、岡本佐江おかもとさえ。おれの恋人です」


その名を口にした瞬間、井上のダークスーツに包まれた身体からまぶしいほどのつやがはためくのを、飯塚は見た。

七色の、きらめくほどの色つや。

三十七になる男が、仕事以外にたったひとつ手にした大切なものを、そっと垣間見かいまみせた瞬間だった。


飯塚が、思わず言葉を漏らす。


「幸せ、なんですね、井上さん」


ひょい、と井上は上質のダークスーツの肩をあげた。


「おれは、幸せについて何も知らない人間です。ただ、佐江さえに関しては自信がある。あれは、男がこの先の人生すべてを賭けても後悔しない女です」

「うらやましい……」


飯塚が茫然ぼうぜんとつぶやくと、井上清春はこの世のものと思えない美しいかおで笑った。


「飯塚。どんな男だって、いつも優等生ではいられません。その女性がきみを変えてくれるのなら決して手放さないことです」

「まだ……手に入れていません」


かろうじて、飯塚は答えた。すると井上は端正な顔でにやりと笑って見せ


「それでは、どんなきたない手段を使ってでも、そのひとを手に入れるんですね。惚れた女がいる世界は、今きみが見ている世界とはまるで違いますよ」

「何が違うんでしょう」


飯塚はぼんやりと尋ねた。

井上清春はまるで磨き抜かれたダンスのようななめらかなしぐさで、煙草を灰皿に押し付けて、捨てた。

そしてほほ笑む。


「どんな世界かって? そうだな……温かくて、柔らかくて、心地いい。まるで女にしじゅう包まれているようですよ。それもただの女じゃない」


井上はぽん、と飯塚の肩に手を置いた。そして、おだやかなテノールの声で飯塚の耳にささやいた。


「おれの女のだ――天国だぜ、飯塚」


そのまま優雅に立ち去る井上を見て、飯塚は腰が抜けたようになった。

あのひとはもう、守るべき人も守られる幸せも知っている。

井上清春にはもう、うつろな余白はない。


そして飯塚は余白を持てあまし、埋めてくれる人を知りながら一歩を踏み出せずにいる。

飯塚と井上清春との間にある距離は、大天使と天から落ちて地にもぐった堕天使ほどにも遠い。

飯塚の願いをかなえようもないほど、遠い距離だった。

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