第16話 恋しているんです

深夜のコルヌイエホテルのスタッフエリアで、深沢洋輔ふかざわようすけは舌打ちしながら、くわえていた煙草を乱暴に灰皿に押し付けてから捨てた。


「とっくに映画は仕上がったんだろ。早撮はやどりで有名な日向ひなた監督の映画だ。正味しょうみ、一カ月でやっつけたらしいぜ」


井上清春いのうえきよはるは何も言わずに、優雅に肩をすくめた。

深沢は長い脚でスモーキングエリアを出ていきざま、部下の飯塚慎二いいづかしんじをにらみつけた。


「シンジ。てめえは、ちっと頭を冷やしてからバーに戻って来い。次にオーダーミスをしてみやがれ、客の前で丸裸まるはだかにしてやる」


そう言うと、深沢はさっさと出て行ってしまった。

あとに残った飯塚は、ため息をついてから、煙草を吸っている井上にきちんとした角度で礼をした。


「助けていただきました、ありがとうございます」

「きみがミスをするとは、どうしたんです? いつもは深沢のカバーに回るほど、うまくやれているでしょう」


井上は丁寧な言葉で飯塚にたずねた。

この男は普段から動作がきれいで、言葉づかいもやわらかい。だが飯塚は、上司の深沢に叱られるより、井上のほうがよほど怖い。

井上の目の奥には、いつもこごえそうなほどに冷たい色があるからだ。


しかし今夜スモーキングエリアで井上の顔を見上げた飯塚は、ちょっと首をかしげた。

いつもなら見られるだけで傷がつきそうなほど鋭い井上の目線の中に、かすかな柔らかさが感じられる。相手を切りつけるだけでなく、切りつけた後の傷まで引き受けるような、広さと深さがあった。

その深さが、飯塚から次の一言を引き出した。


「恋、しているんです」


えっ? と、井上の端正な顔が驚いた。飯塚はあわてて


「あ、いや、その。ちょっと、プライベートで。ああ、忘れてください、井上さん」


ふうんと言って、井上はくわえていた煙草をほっそりと長い左手の指で持ち直した。


「きみがか? メインバーきっての優等生が”恋”か」

「あ。もういいんです。しごとが」


あたふたとスモーキングエリアから出ていこうとする飯塚に、井上は声をかけた。


「きみの友人の田川たがわくんがそう言うのなら、話も分かりますがね。きみがそこまで言うのは、ちょっと意外です」


飯塚は思わず振り返った。


「田川?コンノードホテルの、田川ですか」


ええ、と井上は優雅にうなずくと、


「最近、彼とよく会うんですよ。田川くんの彼女は、おれの恋人の部下だからね」

「こい、びと」


飯塚は正直に目を見張った。他人に向かってしれしれと”恋人”などという甘い言葉を言える男を、飯塚は見たことがない。

しかし井上は平然とした顔で


「きみも、佐江と会ったことがあるでしょう。そうだ、このあいだはずいぶん助かりましたよ、飯塚。くだらない男が、メインバーで佐江に手を出そうとしたのを教えてもらいましたね」

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