第三章「十一月二十六日 火曜日」

第12話 傷ついた固いつぼみのような人

その朝、飯塚慎二いいづかしんじは2DKの自宅アパートで鼻歌をうたいながら二人分の朝食の支度をしていた。

味噌汁、たきたてのご飯、海苔に納豆。

飯塚は外食では和洋中に関係なく何でも食べるが、自宅で作るのは和食と決めている。自分が好きだからだ。


あの女の子は和食派だろうか?

すっかり食事の支度を終えてから、ふと飯塚は首をかしげた。もし彼女が洋食派だったら、トーストがいいかもしれない。

冷凍庫に食パンの買い置きがあったか、と飯塚が冷蔵庫の前でしゃがんだ時、寝室にしている隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。


飯塚は味噌汁の火を切ってから、振り返った。

キッチンとつながった部屋と隣の寝室の間で、少女のような女性が口を押えて立ち尽くしていた。

顔色が悪い。

彼女の顔は紙のように真っ白だ。


「あの……昨夜は、ごめん、なさい」


女性は口をおさえたまま、もごもごと話し始めた。


「あなたのこと、噛むつもりは、なくて。でも、噛んでもいいって言われたから、っていうか、誰かとあんなに近づいたのは、十数年ぶりなので」


そう言った瞬間、女性の顔がよりいっそう、青ざめた。

口元をおさえて、ふらふらと立ち上がろうとする。

飯塚はとっさに彼女を支えようと駆け寄りかけ、しかしすぐに身体をとめた。

この子は男にれられたくない。

れられただけで昨夜のように意識を失うほどに、男がダメなのだ。


飯塚が動きを止めて女性との間にしっかりと距離を取ると、彼女は真っ青な顔のまま、目線めせんで『ありがとう』と伝えてきた。


「吐きそう?」


飯塚が尋ねると、彼女はかろうじてうなづき


「トイレ……はいちゃう」


飯塚は、今度はすばやく動いてトイレのドアを開けてやる。飯塚の目の前で小柄な女性はドアの隙間にすべりこみ、パタンとしまった。

そのまますぐに、吐いている気配が続いた。


といっても、吐くものはろくにないはずだ。

飯塚が昨夜彼女と会ったのが深夜の一時近く。今は朝の九時だから、あの時に彼女が食べかけて途中で放り出したサンドイッチが最後の食事だろう。

もうとっくに消化されているはずだ


だから、いま彼女が必死に吐き出そうとしているのは胃液だ。

胃液は吐く時に食道表面を荒らしていく。

吐き終わった後はぐったりするし、食べ物の匂いも厳禁だ。においだけでまた吐く。


酔っ払いに慣れているベテランバーテンダーでもある飯塚慎二は、トイレのドア向こうの気配をはかりながら、部屋の窓をすべてあけて換気扇を最大に回した。

数分後、蒼白な顔の女性がトイレからよろめいて出てきたときには、すでに小さな部屋からは食べ物の匂いがすっかり消えていた。

炊き立てのご飯の匂いも、大根と揚げの味噌汁の匂いも。


消せるものなら、飯塚は自分自身の気配さえも消していただろう。

彼女をいたわりたい。

なぜそう思うのか。理由がわからなくても飯塚は切実にそう思った。

傷ついた固いつぼみのような人を、いたわりたい。


「少し、横になったほうがいいよ」

「すみません……すみません」

「一時間くらい横になっておいたほうがいい。俺は夕方の出勤だから、気にしないで休んで――あの、さ」


と、飯塚慎二は静かに切り出した。


「君との取引、受け入れるよ。一回だけあげる。だから君も、一回だけおれの女王様になってよ」

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