第11話 俺の手を、噛んで

飯塚いいづかという男は、あっけにとられた顔で椿つばきを見た。椿のどこといって特徴のない顔が、カッと真っ赤になった。

風が吹く。

その風にのって、椿は逃げ出そうとした。


なんてことを言ったんだろう。

ろくに知らない男にと頼むなんて。

しかも、バージンなのに。

バージンどころか、男に指一本ふれることができないような重症の男性恐怖症なのに。


椿は身体をひるがえして大あわてで逃げ出そうとした。男はとっさに、椿の手首をつかんだ。

びりりっと、椿の全身を恐怖と寒気とパニックが襲った。


「いやあああああっ!」


椿の口から、大音響の悲鳴がでた。

夜気をき、どろりとした泥濘でいねいのような密度のある恐怖が椿に向かって手を伸ばしてきた。

椿の、のどを締めに来る闇だ。

全身をけいれんさせて、椿は身動きもできなくなる。


あれが、くる。

あれが。

椿の息の根を止めに、来る。


すうっと、椿の意識が飛びそうになった瞬間、素早く立ち上がった男がいつの間にか椿の背後に回り、そっとかかえこむように腕を回した。

そしてやわらかく、椿の口をふさいだ。

男の声がパニックになっている椿の耳元で聞こえた。


「大丈夫だから。落ち着いて。その声を止めたかったら――俺の手を噛んで」


目の前が真っ白になっている椿の頭には、男の最後の言葉しか入ってこなかった。

俺の手を、噛んで?

噛んでいいの?


椿は息を吸うために口を開け、そのまま男の親指の長い手にがぶりとかみついた。

鼻につく、鉄っぽいにおいが椿の口中に満ちあふれる。

ああいやだ。

あたしは、この味を知っている。

血の味を、血の匂いを。

くずな男の、ろくでもない血の味を知っている。


館林椿は、父であった男の血の味を、知っている。

すうっと足元が揺らいだ。

椿はそのまま気を失った。

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