第10話 変わりたい。変わりたい、別の人間に

そこで舘林椿たてばやしつばきは、生まれて初めて自分がやりたいと思ったことを、考えもせずにやってみることにした。

深夜の路上に立ち、目の前のイケメンのスニーカーの上に自分のボロボロのスニーカーをのせて体重いっぱいで踏みつけてみたのだ。


片足だけ強く踏まれて、男のバランスが揺らいだ。

そのタイミングで、椿は残った片足を十一月のこごえそうな路上につきたててじくにして、肩にかけたバッグを思いきり振り回した。


「わ……わわっ」


バランスを崩した男の身体に、椿の振り回したバッグがまともに当たった。


「……いてえ」


路上にトン と腰を下ろした男は短い髪を少し乱して、地面から椿に向かって笑った。

とても、きれいに。

その瞬間、椿の覚悟が決まった。


もう、こんな人生は嫌だ。

変わりたい。変わりたい、別の人間に。

今の、館林椿ではない人間に。

椿は冷たい路上に座ったままの男のそばにしゃがみ込んだ。


生きている男に、これほど近づいたのはもう十八年も昔のことだ。

には。

椿はすうっと息を吸った。透明な夜気にまぎれて、ほのかにミントの香りがした。

男の髪から。

椿が飯塚いいづかと名乗った男の髪をにらみつけていると、その下からひょいと端正な顔があらわれた。


意表いひょうをつかれたよ。やられた」


飯塚いいづかはもう一度あかるく笑うと、椿に向かって手を差し出した。


「尻が冷たい。手を貸して」


椿はその手をじっと見た。

親指の長い、きれいな指だ。椿には絶対にれられない指。

だって椿は、男性恐怖症だから。

その指先に向かって、椿はつぶやいた。


「女王様……やります」


え、と若い男はすわったまま、思わず声を上げた。椿は相手の反応をあえて無視して続けた。


「一回だけ、やります。でもSMプレイって、やるほうには、トレーニングがいるんです。三週間、待って下さい。それから……頼みがあります」


男は何も言わずに、路上に座ったままじっと椿の顔を見あげた。

椿はごくりとつばをのみ、声が震えませんようにと必死に願って口を開いた。


「あたし、もうバージンでいたくないの。だから……して。一回だけ、してよ」

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