第6話 ムチのように優雅
銀髪を形の良い額に落とした年配の紳士は、半裸のまま震える視線で答えた。わずかにたるんだ背中には、女性のローヒールがめり込みつつある。
「あふ……お店を、一周して、グラスを……」
「グラスを?」
若い女性は先ほどの女王様と同じく、短い言葉を連ねて男を追い詰めていく。年配の上品な男は少したるんだ体をちぢめて、身もだえていた。
「ふ……グラスを、下げてくるようにと……私の、背中で……ふうっ」
「背中で?」
「ふ……うっ」
年配の、貫禄あるはずの男は、自分の年齢の半分以下の女性の声に、ふるふると身体も声も、高い鼻先もふるわせて必死で答えている。
その様子を見て、飯塚は思わず顔をしかめた。
なぜこんなひどいことを……と思った飯塚の眼に、這いつくばった男の口元がわずかにゆるんでいるのが見えた。
ぞくっとうなじの後ろが総毛立つような感覚で、飯塚は目の前の光景を見つめた。
ひどいことじゃない。
こいつ、歓んでいるんだ。
年配の男は身体をよじりながら
「グラス……私は、いぬですから……いぬ……女王様のご命令で……」
若い女性はぐいっともう一度低いヒールを男の背中にめり込ませた後、足をはずして、持っていたカラのシルバー盆を男の背に乗せた。
「女王様がおまちよ」
男は一気に顔に喜びをみなぎらせ、背中にシルバー盆を乗せたまま、できる限りのスピードで店の床を移動していった。
部屋のすみでは、女王様と犬のプレイが再び始まる。
飯塚慎二が茫然としていると、すぐそばでかすかなため息が聞こえた。
「ああもう、いやんなっちゃう。なんであたしがこんなことまで」
「なんだよ、けっこういい女王さまっぷりだったぜ、椿」
深沢洋輔が笑ったような声でそういうと、飯塚の背後にいた女性が、カウンターにのろのろと戻ってきた。手には、空いたグラスを持っている。
「女王様なんか……いやです……」
若い女性はため息をついて、おどおどとグラスをカウンター内に置いた。
その指は彼女の顔の幼さと反比例して、ほっそりとしなやかで優雅だった。
ついさっき、エナメルのピンヒールをはきこなした‟女王様”の手の中に
飯塚は、顔をあげた。
並んだら飯塚の肩までもなさそうな若い女性が、ショートカットの頭を振っていた。
その瞳が、時折きらりとしながら店の奥の“女王様といぬ”を見ている。
少女のような目線が、かすかに笑っていた。
それに気づいた瞬間。
コルヌイエホテルの優等生・飯塚慎二は恋に落ちた。
正確には、ムチとヒールと洗いざらしのトレーナー、どすの利いた声に、恋をした。
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