第5話 この世であって、この世でない場所

 椿と呼ばれた若い女性はおどおどと顔を上げ、相手を認めて、わずかに肩の力を抜いた。


「あ、洋輔さん」


 SMバーの奥から酒を持って出てきた若い女性の顔には前髪が厚くかぶさり、自分の周りすら見えていないように飯塚には思えた。

 着ているものはサイズが合わずぶかぶかで、かなり洗いざらして白っぽいグレーになりかけている黒いトレーナーだ。

 ちょっとやぼったい。でも、ごく普通の女性。


 しかし足元を四つんばいの銀髪紳士に邪魔され、カウンターに行き着くことすらできない飯塚慎二には、この少女が異様でないことも、おかしく感じられる。

 いっぽうバースツールに座る深沢洋輔は、まるで目の前で繰り広げられている異様な光景などまったく見えていないかのようだ。


 深沢がいつもやすやすと支配している、老舗ホテルのきらびやかなメインバーにいるように。

 勝手を知り尽くした場所でくつろぐケダモノのように、深沢は少女のような女性に笑いかけた。


「酒くれ、椿ちゃん」


 小柄な女性はことんと二つのグラスをカウンターに置いた。それから小動物のようにきょろきょろとあたりを見まわして


「あっ……間違っていました? ジンライムは、ひとつ?」


 深沢はにやりとわらい


「二つでいいんだよ、椿。俺の連れは、あそこから入ってこられねえようだがな」


 はっ、と飯塚慎二は息をのみ、四つんばいになったまま、ぶるぶると震えている年配の男をよけるように回り込んで、カウンターに向かった。

 飯塚は、ちらりと背後の男を見た。男はまだうずくまったままで、背中に鳥肌が立っていた。


 なんで動かないんだ?

 飯塚はひそかに首をかしげる。

 そんな飯塚の心中を読み取ったように、深沢洋輔が艶のあるバリトンで言った。


「なあシンジ。あれはあれで。だがあの世界に入り込むには、それなりの才能がいるぜ」

「才能?」


 驚いた声で、飯塚は深沢の言葉を繰り返す。

 深沢はSMバーのカウンターで、にやりと笑って飯塚を見た。


「SだろうがMだろうがな、幻想とてめえの身体をつなげられる能力がなけりゃ、はなれねえ。あの男はな、今、この世であってこの世じゃねえ場所にいるんだ」


 飯塚が茫然としているとカウンターの中にいた若い女性は


「いらっしゃいませ」


 とごく小さな声で言って紙のコースターを敷きなおし、ジンライムを飯塚の前に移動させたと同時にすばやく後ろに下がった。

 それから彼女はカウンターから出て、テーブルに残っているグラスを片付けようとしたところで、カーペットにうずくまったままの年配の男に気が付いた。


 一瞬だけ、女性の動きがとまどったように停止した。飯塚は自分と同じ空気を彼女に感じて、ようやくほっとした。

 ああ、まともな人がここにいた。


 しかし飯塚がジンライムに口をつけたとき、すぐそばから、低くどすのきいた声が聞こえた。

 低い声は、短く小気味よく、男をののしった。


「女王様にお返事もできないなんて、ろくな犬じゃないわね」

「……あふっ!」


 飯塚が振り返ると、少女のようにさえ見えるさっきの若い女性が、手にシルバー盆をもったまま、わずか3センチのローヒールを年配の男の背中に突き立てていた。


「女王様のご命令はなに?」

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