第2話 この世でかなわぬセックス

 飯塚慎二は、暗いメインバーのバックルームからホールへ駆け出してゆく同期の姿に目をやった。同時に自分も忙しく手を動かして、カウンターで必要な物品をそろえていく。

 その部下たちの姿を、メインバーを統括する深沢洋輔は見るわけでもなく見ている。

 飯塚は深沢の視線が怖くて、さっきからもう背筋がゾクゾクしっぱなしだ。


 都内有数の高級ホテル・コルヌイエのシックなメインバーを支えているのは、チーフバーテンダー・深沢のわかりやすい“恐怖政治”だ。

 ボスにさからうとボコボコにされる。

 飯塚もすばやくカウンターに戻ろうとしたが、後ろからガシっと首根っこを深沢に掴まれた。


「シンジ、てめえはまだだ」


 深沢はラクラクと引き寄せた飯塚の身体をぐるりと廻し、あごをつかんで顔を固定した。そのままじろじろと眺める。


「なんですか、ボス?」


 深沢洋輔は色気がしたたるような骨ばった指先で飯塚の顎をつかんだまま、美麗な顔をしかめた。


「シンジ。てめえ、最近ろくなセックスしてねえだろ」

「……なに言ってんですか」


 飯塚が弱い声で言いかえすと、深沢は飽きたおもちゃを放り出すようにポイと部下の顎から手を放した。


「客だろうがなんだろうが、女からの誘いを断るようなバカはうちのバーにいらねえんだよ。シンジ、今日の帰りは俺につきあえ」

「かえり?」

「てめえの身体にちっとアブラを足してやる。そら、カウンターの中を片付けちまえ」


 そう言うと、深沢は飯塚の細い腰を蹴り飛ばすようにしてバックルームから出した。飯塚は危なくころびそうになりながらも、客の視線を意識してさりげなく態勢を立て直す。

 カウンター内を歩くうちに、飯塚はかろうじて冷静さを取り戻した。

 だが耳いっぱいに、ついさっき深沢に言われた言葉がわんわんと鳴り響いている。


『最近、ろくなセックスしてねえだろ』


 最近どころじゃない、と飯塚は思った。

 飯塚慎二、28歳。

 コルヌイエホテルきっての優等生バーテンダーは、思うままに欲情を解放するような関係を、誰とも持てたことがない。いつでも自分が余白だらけの空っぽで、空っぽすぎて足元が浮くような感覚がある。


 飯塚は、手ぎわよくカウンターの中を片付けながら、後からバックルームから出てきたボスのしなやかで骨っぽい姿を眺める。

 深沢洋輔の長身は狭いカウンターの中でも、きっかけがあればすぐにでも走り出しそうな機敏さで満ち満ちている。

 そしてあふれるような色気をしたたらせて、軽やかに動き回っている。


 この人ぐらいになれば、と飯塚は考えた。

 この世でかなわぬセックスなど、ないんだろうな。

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